こころー夢の河辺でー

2011-04-08

セレーネーの馬

10:40

 俺は、この街のはずれに十年住んでいる。

 がらくたの寄せ集めみたいな処で、どこといってとりえはない。曲りくねった暗い小路の両側に

は倒れかかった軒並が続き、ペンペン草の生えた瓦屋根の上では、雀がしたり顔に跳びはねている。

 この地方の自治体の職員として、俺は書記の椅子に八年間坐ってきた。何か特別、人生上のめあ

てがあるでなし、殊更思い切ったことをやるのでもなく、ただ漠然と日々の仕事に追われて過ごし

たにすぎない。

 人付合が悪いので友達もなく、三十にもなるのに気のきいた色恋の昧一つ知らない。

 二、三年前、どうした事か、いきつけの安食堂のはあさんと話をするようになったが、半年位で

えげつない口論をして、それっきり会いもしない。                        

 それというのが、お互いとるに足りない個人生活にくちばしを突っ込みすぎたためで、時がくる

と、やはり振り出しから、気まずい相手に過ぎないことが分ってしまったというだけの話である。

 ばあさんも、何かを求めようとしたのだが、それ以上に自分の生活が大切だったのだろうし、俺

は俺で、ばあさんより若い自分を気負っていたので、ばあさんごときにうつつを抜かすのは世間体

のことを考えても恥かしく、実はおっかなびっくりだったのだ。

 以来、以前にも増して口の重くなった俺は、ばあさんの毒気をかぶったまま、何か街自身の汚点

のように、特別そこにしみついた具合に暮している。

 街の人は俺を見て顔をそむけて通る。まるで俺を見ることによって汚されたかのように――つま

り、これは俺の病気のせいだろう。

 メフィスト・フェレスの云い草ではないが、全く人間という奴は妙だ。ことにこの生き物の病気

ときたらそれこそ千差万別、千の病人がいたら、そこに千の病気があるんだ。

 俺の病気はその中の一つ、気の弱さから来る不治の病だろう。

 俺はある古びた門を知っている。すこし前まで旧陸軍の士官達がくぐった門だ。恐ろしく頑丈な

造りで、四方の巨大な角材には鋲が打ってある。ある夕刻、仕事帰りの俺は、その前にぼんやり立

っていた。(断っておくが、俺はしばしば歩行中に立ち止って、物をじっと見詰めるくせがあった

のである)

 ちょうど雨でも降ってきそうな空模様だった。真黒にすすけ、――いや、真黒にコールタール

なんかを塗りたくったものの上に埃が付着したのだろう、――いかにもすばらしい重量感をもって

聳えたっているその門を見上げているうち、俺は、一種特別な気分になっていた。

 それは、この門の意味や歴史への考慮でも、俺自身の或る種の感慨でもない。

 一種特別な気分――何かこの門自体に生命があって、この俺に語りかけているような感じ、こっ

ちの心の動きをとめ、彼自体の生命の中に吸収しようとする感じなのだ。

 ――今でも思うのだが、あの時、もうしばらくでもあのまま立ち止まっていたら、何か重要なこ

とが起ったかも知れないと思っている。

 最初は殆んど目には見えない位の腫瘍が、当の本人が何も知らずあたりまえの暮しを続けている

内に、どんどん見えない皮膚の下であたりの肉を食いあさって広がり、遂には片足を、また片手を

切断しなければならなくなってから初めて気付くといった種類の病気はままあるものだ。

 現実が耐えがたいものに思える時、俺はときおり本屋に立ち寄って表題の文字を眺め、コーヒー

の匂いのする喫茶店の一隅に坐り、音楽に聴き入ることがあった。

 音楽の律動が、或いは書物の表題からくるイメージが、街の圧力を克服する勇気を与えないまで

も、それらは俺に、安らぎの場所を暗示しているような錯覚を起させた。

 現実的な快楽を欲していないわけではなかったが、ただ俺のような臆病な心をもつ人間は、不意

の生々しい現実に立ち向うと、全くどうしてよいか分らないほど狼狽して、自分でもわけのわから

ない衝動からふいと身をそむけてしまうのだ。

 或る朝、俺が下宿で新開を読んでいたときだった。妙に含んだような低い笑い声が聞えるので、

何気なく窓の方へ眼をやると、そこに茶色の毛を全身に生やしたいきものが窓枠一杯に立ち上り、

歯を剥き出してこっちを見ているんだ。

 いったい何だか訳が分らないまま、ぼんやりそいつを見詰めていると、みるみるそのぶ厚い唇が

まくれ上り、汚い柔毛の垂れ下った頸と思われるあたりが走るようにひくひく動くと、不意にそこ

から最前の笑い声が低く聞えてきた。

 はっと息をのむと同時に、とてつもない恐怖の念が俺をとらえ、いっとき俺はそのいきものの頚

のあたりから眼をそらすことが出来なかった。

 (笑っている! 咽喉を震わせて)

 ぽかんと口を開けたまま、まじまじとそのいきものを見ている内、次第に空恐ろしい気持に全身

を縛りつけられていくのをどうすることも出来ず、俺は急いで窓から眼をそらすと、一心に目の前

の新聞を読もうとしたんだ。口には呪文のように、(いったい、このいきものは何だ。このいきも

のは何だ。何だって人が新聞を読んでいる所をぎょうぎょうしく窓に立ち上って見るんだ)と呟き

ながら。

 しかしなんと、窓を塞がれて、暗い部屋の中で新聞を読んでいるというのに、早く立ち去って貰

いたいと思っているのに、そいつはいっかな窓を離れようとしない。

 俺がなるべくそのいきものと眼を合わせないように気をつけながら横眼で見ると、そいつはまだ

太い眼玉をぎょろつかせながら、俺や、俺の読んでいる新聞や、部屋の中を物珍しげに見廻わして

いるんだ。

 気味の悪い奴だ。全くうんざりする。そういつまでも立ち止っていられてはかなわない。何とか

追っぱらう算段はないものか。俺が窓枠に近づいて、この新聞をパッと振ったらびっくりして逃げ

はしないだろうか。全くこのままでは落ちついて部屋にいることも出来ない。新聞さえ読めやしな

いじゃないか。

 俺はそう思ったから、そっと立ち上ると窓際へ歩いていって、横を向いたまま新聞をぱっと振っ

てみた。

 すると、どたりとそのいきものが下へ落ちる音がして、続いて、去っていくかつかつというひず

めの音が聞えた。不思議に思って見送ると、それはなんと馬さ。それもごくありふりた馬車引きが

尻尾を蹴立ててとっとと道の向う側を走っている。

 そのことがあってから、あまり窓から外を見なくなった。俺の意識の中で窓というものに対する

観念が変ってきたんだ。

 それまでは、四角な枠の中の街の風景をガラス越しに眺めることによって安心していたんだ。

 ガラス越しに見るものは、単に眼にとまる存在の影に過ぎぬので、例えば、暗黒の中で声だけを

聞くのとではすこし違った心理的なニューアンスがある。

 色彩にしても、音にしても、ただ単にそれだけを感覚することは純粋状態でしかあり得ないが、 

それにしても、音が殆んど聞えない、或いは眼にはいるものが殆んどないという状態は普通ではな 

いのだ。                                          

 眼を失う、或いは聴覚を失くすということは確かに損失ではあるが、残された感覚はそれだけ砥

ぎすまされ、失われた感覚をおぎなおうとするに違いない。そのためには、これまでの自己の体験

がすべて動員され、口をあのように開けばどのような音が出るかということに想像の力が及ぶに違

いない。

 主観的な感覚、受け取られた感覚そのものでなく、考えられた、想像された感覚が余儀なく起り、

存在自体は多分――主観的な観念として受けいれられるに違いない。

 それが自己にとっては(もともと自分の生んだものだから)安心が出来るということになるのだ

ろう。

 だが、俺は生々しい現実に対する様々な期待を、全く失ったわけではない。とぎすまされた剃刀

のような神経をもって現実の中に分け入り、血みどろの戦いの中で己れも他もずたずたに切り裂か

れた状態を夢見ることもある。

 しかし、ほんとうはそんなものはみんな嘘だ。俺はもっと臆病で、卑劣で、虫ずの走るような自

己愛着で一杯の人間なのだ。

 だから、日当りでうつらうつらしている年寄りのように、実際の行動はたった一人で部屋に閉じ

こもり、レコードでも聴いていた方がいいと考えてしまう。

 音楽に飽きれば、窓の中の間伸びしか風景を眺めればよい。そこには、俺にとって丁度いい位の

刺戟を与える現実がある。俺は同じ場所に坐ったまま、何一つ傷を負うことなしに人生という奴を

体験できるのだ。

 俺は間違っていたのだろうか?

 最初の不安がそれだった。

 窓に対する観念、俺自体への評価、更に現実というものの可変性への誤った認識、狂っているの

は世界ではなく俺そのものではなかったか。

 馬の出現以来、これまでの自分にわずかながら反感を覚えるのだった。

 そんな時、誰かに見透かされている感じが起り、窓に眼をやると、たいてい馬の黒い影が外を通

っているのだった。

 或る晩のこと、ドアの外でゴホンゴホンと喘息のようにつまった咳音がして、ここを開けて下さ

いと小さくいう声が聞えた。

 俺の部屋には訪問者はめったに来ない。

 俺は例の馬だなと思ったので、尚一層鍵を堅くつめた。

 馬は、こんどは、風邪を引いていますので火にあたらせて下さいという。

 新開も読みたいんで――頼むような調子だ。

 変った馬さ。                                         

俺は、ふと開けてやる気になった。こういう奇抜な仲間を持って見ることも面白いかも知れない 

し、それに、新聞を読める馬を連れて街の中を歩いたら、さぞ愉快だろうと考えたのだ。

 俺は、静かに這入るんだぞといいながら鍵をまわし、戸を開けた。

 多分――俺にはその時、自分に対する加虐的な気持もあったのだろう。――

 馬は、一と月前からみると、毛も艶々と身綺麗になり、その上、礼儀も知っているらしく、今晩

はおそく上りましてと口上を述べたてた。

 机の前に連れていき、椅子をすすめると、馬は最初のうちはどうしてよいか分らぬ様子だったが、

やがて、机の上に前足をカッチリとあて、後足を折り曲げると、出来るだけ尻を突き出してどうや

らおさまった様子だ。

 しかも、失笑を禁じ得ないのはその恰好ばかりではなかった。

 彼は、新聞をその大きな左右の眼を交互に使用して読み、時々面白い写真かなにかが出ていると、

その度ごとに紙を吹きとばさんばかりの勢いで溜息をつくのだ。

 一方、俺は彼の付添役然と傍に腰かけて、新聞を裏返したり、別な新聞を下ろして来たりしてい

た。

 彼は、いかにも満足げに、その黒いまつげをしばたいて云った。

 まあ、なんて凄いんだろう、人間というのは。こんなに毎日多種類の事件を起したり、計画した

り、何かを作ったり、また、それを批評したりするんだものね。けれど……。

 彼はそれに弱々しくつけ加えた。

 馬なんていうのは、何て仕方のない屈従的な哺乳類なんだろう。これじゃあ人間に鞭で使われて

も文句は云えない。

 でも、そう悲しむことはないさ。

 慰めてやるべきだと判断して、俺はいった。

 君等は鞭で使われることに不満を抱くことがあるかも知れぬが、こっちから見れば、それはかえ

って羨ましいみたいなものだ。自分の意志で行動するというのは案外難事だぜ。

 しかも、馬だって、君のように向上心に富んだ馬がいるんだ。今に、馬の方が人間より賢くなっ

て人間を支配するようになるかも知れんさ。もしそうなったら……。

 もし、そうなったら!

 励ましが利いたのだろう。みるみる生気をとり戻した馬が、尻尾を振り立てながら叫んだ。

 うん、そうだ、馬が世界の支配者になったら、きっとそれは愉快な国に違いないよ。

 俺は、心の中で、こいつめ何てのはせようだと、おかしくてならなかったが、とにかく人間の社

会はつまらんとけなし、未来の馬の国の実現を心から期待していると云ってやったら、その時は自

分は大統領だろうから、お前は必ず自分の秘書にしてやるうと、滑稽にも約束すると、その晩はそ

のまま帰っていった。

 一方、残された俺の気持は妙な工合だった。なまじっか冗談半分に調子を合せ、はい、有難くお

受けしますなどと云っているうちに、どうやら彼のペースに巻きこまれ、馬の野性の清新さに惹か

れる反面、人間国家に対する不信、嫌悪の念が一層深まったようだ。

 側面からいって、例えば、都会では年々子供の数が少くなっているという。またフランスでは女

は子供をもちたがらないといわれる。

 そうすると、文化が発達し、人間が進歩する程、人類の内部でそれ自身を滅亡に導く何者かが育

って来るということがいえるのではないだろうか。

 機械文明の喧騒と多忙から、人間の自己分裂的傾向は広がり、年々、自殺者や、精神病患者の数

を増大させているといえるではないか。

 更に、原水爆の実験によって惹起されるまだ知られない影響、止まるを知らぬ資本の利潤追求か

ら誘発される戦争、社会と個人との間に今までになく深まっている溝、その他さまざまの、人類に

とっては存亡の危機に係わる問題が、未だ徹底的な解決の方策を見出せぬまま放置されていること

――果して、これらの事柄を考慮にいれても、まだ人類は安全だと云えるだろうか。

 爬虫類が第二氷河期の波に押し流されたとすれば、その後に出現した哺乳類の支配者である人類

は、次の第三氷河期を迎えるや否や氷の下に閉じこめられ、すべての交通は遮断され、いかなる量

の燃料も焼石に水で、そのまま倒壊した建物の地下室で、枕を並べて飢死するようなことになるか

も知れない。

 人類は万物の霊長といい、他の動物を我物のようにあつかっているが、最後はやはり彼等と運命

を共にするようになるだろう。

 もの云わぬ彼等のまなざしは、いつも語っているではないか、――お前も、やはり我々と変らぬ

動物だ。動物の域を脱し、神への昇化を願うお前も、やはり食べて、交って、最後は死なねばなら

ぬ儚いものの一族ではないか――と。

 かような事をとりとめもなく考えているうちに、俺は憂うつな気分に陥ちこんでいくのだった。

 自分のことを考えても、俺は人間社会を嫌って孤独の内に身を落し、必要な用事がないかぎり外

へも出ず、音楽を聞いたり、文学書を読み耽って暮しているが、いったい、こんなことが何になろ

う。単なる時間潰しに過ぎないのではないか。

 或る朝、熟睡の眠りが日か高く昇っても覚めず、いつまでも覚めず、そのまま永遠の無感覚な眠

りの世界へいってしまったらどうしよう。

 眠っている内に、体がだるくてならず、起きようといくら努力しても体がいうことをきかず、ず

るずると死の蒙昧の内に引きずりこまれてしまうようなことがあったら、取返しがつかないような

気がするではないか。こうして考えているうちにも、死は突然足元をすくいとるかも知れぬ。その

時、詩や、音楽が俺を救ってくれるというのだろうか。

 俺は、すでに暗くなっていた道を街の方へ下りていった。じっとしているのが不安でならず、絶

えず騒がしく動き廻っているものの中で、自分も、自分の考えている事柄も忘れてしまいたかった。

 街は深い霧に包まれていた。

 霧の底で、各々さそりの眼玉のようなライトを点した自動車が不気味に蠢いていた。霧の中から、

突然電車が現れ、ごうごうと俺の傍を走り過ぎた。

 大通りを折れて暗い小路を通り抜ける時、危く黒い塊にぶっつかろうとした。抱擁し合っている

一組の男女だった。

 俺は野良犬のようにあてどもなく歩いた。暗い軒並から明るい軒並へ、明るい通りから暗い通り

へと。不意に横合いから、俺の肩を掴んだ者がいた。彼は酒臭い息を吐きかけて俺を覗きこむと、

大丈夫かと何度もしきりにきいた。

 俺はあかりの消えた飾窓の前に立ち、自分の顔を探して見た。臆病な猿のような顔が暗い表情を

浮べてこちらを見ていた。

 その晩、俺は酒に酔って帰った。

 そして、その次の晩も。酔いの味を一度覚えるともう忘れられないのだった。俺は毎晩酒を飲み、

明方近い街を歩きまわった。

 酔うと、いつもは暗くどんよりと澱んだ川も、月の光を浮べてすばらしく美しかった。

 俺は橋の上から自分の影を見下ろして哄笑した。すると澄み渡った反響が答えて、馬鹿々々しい

程大きな声で笑った。

 そのようにして、飲酒と狂乱の月が一つ経った。

 俺が馬の三度目の訪問を受けたのは、最近すっかり狂ってしまった体の調子に気も滅入り、しよ

うこともなく、のろのろベッドに這いこもうとしていた時だった。

 ノックの音も何故か聞き洩らし、重い椅子を引いて振り返った時に、やっと、戸口に立っている

彼に気がついたのだ。

 俺は、ぼんやりと彼の異様な風体を見詰めたが、それが絵から抜けだしたものではなく、いつか

の馬であると信じるまではしばらくの時間がかかった。

 そこにいる彼――黒繻子のきらきら光る衣装が胴の全部を隠しているものの、得も知れぬ精気は

濡れたような体躯から舞い立ち、恥じらうかのように撫でつけられた頭上には銀色の耳輪が可憐に

輝いている。

 一方、俺の方はといえば、飲み屋の借金の払いや質屋のかたのために、古いよれよれの背広をど

うやら着こんでいるだけで、それもところどころ綻んでいたり、つぎがあたったりしているんだ。

 優しくいたわるような眼差しに射すくめられた俺の耳を、その時爽やかなバリトンがくすぐった。

 どうですか、あなた、最近は、ずい分御無沙汰致しましたが。

 え! まあなんとか。

 俺は夢から覚めたようにびっくりして叫んだ。

 えーと、そうそう、新聞はここにありますよ。それから火鉢も。

 すっかりどぎまぎしてしまい、そわそわとすすめる椅子に、彼は首を振りながら云うんだ。

 いいえ、今夜はいいのですよ。もうそんなに寒くはないし、それに私はもう新開は読んでいませ

ん。どうやら、すっかりあなたを驚かせたようですね。

 驚いたもなにも。

 俺は不意に口ごもり、まじまじと彼の顔を見守って尋ねた。

 いったい君は、あの馬なのか。

 そうですよ。

 では、どうしてそんなに変ったんだ。

 すると俺のむきになった気持が伝わったのか、馬は急に笑いだしながら云った。

 ちがいますよ、変ったのはあなたですよ。

 まさか。

 俺は馬の云う意味が掴めなかった。

 ほら、あなたは。月光のマダムを知っているでしょう。月光食堂。

 あなたはあの女主人の気持を素直に受け入れなかった。あなたの中の卑劣なエゴだけを大事がり、

それを越えることが出来なかったんだ。それからですよ。あなたが変ったのは。

 卑劣なエゴ! 

 俺はあざ笑った。

 では、誰がそれ以上のものを持っているんだね。

 誰でもですよ、ただ、あなたは動かない自分の影を見ているだけだ。自分の影で街を汚すだけ汚

し、今はその観念の影におびえている。

 まるで、自分でこしらえた罠にはまったようにかい。

 そうです――あなたは退屈なんですか。だったら何故、窓を開いて外へ出ていかないんです。私

にはあなたが分らない。

 俺は自分の城をこわしたくないのだよ。

 まさか! もうあなたの城はぼろぼろですよ。あなたは裸じゃありませんか。

 ふと、彼の声が変ったのに気付いて、振りむくと、馬は涙を目にためているのだった。

 セレーネー、セレーネー、

 窓越しにわずかに覗いている夜空へ向って彼は叫んだ。

 眼に見えない幾十もの油虫が這い上ってくる感じに俺は身震いした。

 セレーネー? いったい何だ。

 宙に在る眼に見えぬ者への感謝の眼差しを送りながら、彼は囁いた。

 私には、はっきり分るんです。あなたが私の傍に在り、私の下頸に手をかけていられることが。

あなたは或る美しい月夜、私に一つの問いを投げた。眠って生き永らえることと、生きて短かく終

ることのどちらを選ぶかと、私は、後者を選んだ。私は選んだ後もしばらく迷っていたが、いまに

して、私は自分の選んだ道が正しかったと知ったのだ。

 あなたは、また別の美しい月の夜、私に人間の肉体を与えることを約束された。今日がその日で

す。私はそろそろ約束の場所へ行かねばならない。しかし、私はまた迷っているのです。犠牲なし

になり得ないとすれば、私は他の入間の肉体を奪わねばならないのでしょうか。それならば、私は

このままでもいい。どうか私をこのままにしておいて下さい。私は人間にならなくともいいのです。

 なんだって!

 それまでひそかな羨望の眼差しで馬を見上げていた俺は、万雷が降りかかったような衝撃に思わ

ずよろめいたのだった。

 馬が……馬が人間になる。しかも、俺よりもけるかに優れた!

 俺の頭の内は激しい嫉妬の血が煮えたぎり、神の恩寵を受けた馬への憎悪感がこみあげてくるの

をどうすることも出来なかった。

 俺は、彼には在って私にない神を罵しりつづけ、絶望したあげく、机の上に身を伏せると、それ

からは、さまざまの愚痴とも泣言ともつかないことを長いことならべたに違いない。

 とり乱して泣きわめいている俺の首筋に、ふと冷たく当るものを感じて俺は振り向いた。

 馬が後ろに立っていて、静かに彼の湿った鼻先を押しつけているのだ。

 俺は涙をふいて彼の眼をじっと見詰めた。すると、彼の長いまつげの下の黒い眼差しは、やはり

じっと俺の眼を見ていた。

 俺は、手を伸ばして彼の長い首にとりすがった。

 そうだ。彼は俺の友達だった!

 俺は彼に頬ずりし、新たな涙で彼の黒い頬げたを濡らした。

 彼は優しく囁いた。

 いこう、僕と一緒に。……火の山へ、そこで僕は人間になる。

 

 火の山だ。

 馬は、私の傍を歩みながらいった。

 火の山?

 俺はじっとそれを振りあおいだ。

 俺達の前方に、黒い山々か峯を連ねていた。その中程に、ボッと頂上のあたりを明るく染めて、

円錐形の山が聳えていた。

 俺達の歩いていく道が、夜眼に白々とその方角へ続いている。

 俺は立ち止り、耳を澄まして、山の火が燃える音を聞こうとした。

 まだ遠い、あそこに着くのは真夜中過ぎになるかも知れない、と馬がいう。

 俺達はしばらく無言で歩いた。

 馬が思いついたように云った。

 馬は四つ足、人は二足、そうだ、僕の背に乗りたまえ、そうすればもっと早い。

 みるみる左右の山が後方へ飛び、円錐形の山が迫ると、いつか溶岩台地の上を走っていた。

 硫黄の臭気が流れ、全身の温みを感じる問もなく、俺達は火の山の頂上近くに在った。

 大きく口を開いた奈落が眼下に切り立ち、鉱漿のたぎる音が聞えてくる。

 俺の傍には、やはり彼が下をのぞきこんでいた。時折、舞い上る焔の明るみの中で、黒い彼の体

も、いまにも燃えたつかと思われるほど、赤く透きとおる。

 俺は焔を見詰めた。

 真赤に焼けただれ、崩れ落ちる巨大な岩石の下から凄まじい勢いで噴出する新しい焔を、飛び散

る火の粉を、生きもののようにうねり上ってくる輝く泥濘を。

 かっては、このようなものが世界を満たしていたのだ。輝く泥濘は海へ向ってなだれ落ち、生命

を創造した。野性の後継者として、全世界へ星のようにばらまいたのだ。

 野性、野性、俺は口の中で叫んでいた。

 おおい。

 その時、俺は馬の呼びかける声に振り返って、あっと叫んだ。

 馬の黒い影が、ひらりと火焔の中に飛びこむのが見え、瞬間に消えた。

 さようなら、エンデュミオーンよ。

 かすかな風のようなある囁きが俺の耳に残され、俺は呆然と立ちつくした。

 俺が街へ帰ったのは翌日の昼だった。

 街――それは、かつての俺が見知った街ではなかった。

 もはや、街という概念もくずれ、無秩序なまま投げだされた、卑猥と正義の雑居する物狂おしい

世界が、俺のまわりで泥海のように泡立ち、渦まいたまま無際限に拡がっているのだった。

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2011-03-10

鳥の翼

10:38

  いったい私はどうしたのだろう。その時ほど私自身を無力なものに感じたことはない。私には考

える力もない。話す力もない。そしてただ地虫のように這っていたのだ。それが生きている唯一の

証拠のように――。

 足がだるかった。手も腰も鉛のように重たい。時折途切れそうになる意識からはっと気がつくと、

やはり歩いているのだった。それは際限もない時間。そして際限もなく遠い遠い夜の道――。

 夜眼にうっすらと白く伸びた道は誰も通らない。ただ大型トラックのこうこうと輝く前燈が何度

か私に向って近づき、私の横を幾度も走り過ぎ、その度ごとに道筋のポプラの大木がなぎたおされ

るかのようにばらばらと、その影を私の足元に落した。

 遠くから近づいて来る前燈は何か得体の知れない動物の眼を思わせ、見ている内に大きく拡大し

てくるその光が、今日会った叔父の眼を一瞬思いださせた。                  

 あの澄んだばら色の眼。自分を見据えた冷たい眼の光は今でも心に残っている。(だがあのこと 

はあれぎり二度ともう叔父に会うこともあるまい)あの男は断ったのだ。私の不具の足に。それも

当然な理由だ。あの労働に耐えないことは私も分っていた。誰にしたってそう思うだろう。右足は

幼い遊びの最中に成長を止めそれ以後は時のたつまま、不具の名にふさわしく短かく曲った右足は

普通のように真直ぐ伸びた左足の右側にまるで余計者の様にぶらさがったなりだ。(それはちょう

ど今の私のように)

 私はいつもその足には注意を払うまいと決心していたが(ああなんという事だ!)今日はうかつ

にもほんの叔父の眼前で知らず知らずの内にそこへ眼がいってしまっていたのだ。

 ――あれは今思ってもいいようのない屈辱だった。叔父はその時半透明な眼で見るともかく私と

その右足を等分に見、静かに言葉を濁して話題を転じると、それからはもう二度と私の就職の話な

どしようとはしなかった。

(結局なにも得るところはなかった)暗くなった心を抱えて叔父の家に別れを告げた私はバスに乗

らず、ただあてもなく歩いて――あれからどの位の時間を私は歩いたろう――今という時を忘れ、

明日家族に向って云わねばならない無益な真実(やがてそれは私の無益な生への弁解を必至とする

のだが)――それさえも忘れ呆け、いつか全身にいきわたる疲れの中へ、そして冷え切った心が再

び自分一人だけのいつもの暗みに沈んでいくまで。

 ――私はいつのまにか一人ぼっちで対岸のポプラを眺めて立っていた。黒い木の影が何かを語り

かけるかのように突ったったまま私を見下ろし、その間を光りながら流れる川、そのちょろちょろ

いう澄んだ流れの音が聞え、私はいつのまにか腰を下ろしていた。すると青い草の匂いが私のまわ

りに立ち上り、遠い過去が眼覚めて私に向って舞い戻って来た。すでに現在を忘れた私か、やがて

次第にその甘美な世界におちこむとしはしの時の経つのも忘れた!

 その時、私かどんなにその世界からひき離されることを恐れていたか。だが所詮(現実というも

のは)別のもっときびしい在り方を同時に用意しておくものだ。それはいついかなる場所、どんな

風に私があろうと変らない。(そしてその時もそうだった)

 ちょうどその時、私は頬を強く何者かに打たれたような気持がしてはっと立ち上ると、私の全身

は明るい車のヘッドライトに隈なく照らしだされていたのだった。ごとごととモーターの廻転する

音が止まり、トラックの中から何やら大声でわめく男の声が聞えると、つづいてドアを開けて飛び

だした女の姿が眼に映った……。

「窓を明けるなといったじゃないか!」と怒鳴る男の声を背に、やせた洋装の女が私に向い、ばた

ばたと走り寄ると、私の身体のすぐ傍に落ちていた何やら赤いものを拾い上げてしっかりと胸に抱

いた。今まで気がつかなかったが、それは私の頬にあたってから、夜眼が利かずそのまましゃがみ

こんだらしい一羽の鳥であった。

「どうしたんです」その声は、男が窓から首を出して私に向って尋ねているのだった。(どうもし

ない)、私はまぶしいあかりに向って手を振ると、そのままのろのろ歩きだした。しかしすぐに、

ひたひたと追ってくる足音がして、ぐいと私の肩に手をかけると、その男は酒臭い息を吹きかけな

がら、荒々しく囁いたのだった。

「あんたは足が疲れているようだ。俺の車に乗っていきなさい。どうせA町だろう」

 私は思わず相手の眼をみつめたが、他意のない明るい眼付に誘いこまれるようにうなずくと、そ

の男はもう私の手をひっぱるように車の方へ連れていき、女の隣に押し上げたのだった。

「そいつはやせてるから大丈夫ですよ」男はゆかいそうに笑うと、そのまま反対側から運転台にの

ぼり、ハンドルをぐいとひっぱった。

(運転台の中は温かだった)私の傍に坐っている女はよほど変っているのか、新しくはいって来た

私には全く無関心に、じっと前の闇をみつめていたが、そうと知ると、私の眼はいつか、その女の

膝に死んだようにとまっている先刻の鳥に落ちるのだった。

 車は夜の中心をびゅんびゅんと走り、その振動で、鳥の薄桃色のとさかはぶるぶる震えていたが、

鳥の胴体をささえる女の白い手はかたく動かない。

「こいつは変った女でね」

 運転手は前を向いたまま大声で話しかけて来た。

俺の妹ですよ。世間ではこいつのことを気狂いだといってますけどね。なあにそんなことは俺も

妹も信じてはいない」

 そこでいったん声を落した男は、運転台の下から酒瓶をつまみあげて、ぐいと呑みあおると吐き

だすようにつけ加える。

「世間の奴等の云うことなんか!」

(世間の奴等の云うことなんか)その強い語調は人をぎくりとさせるような響きがあった。

 ――世間の奴等の云うことなんか――(ではこの兄妹もやはり世間に容れられない人達なのか)

 私は女の抱いている柔かそうな鳥の羽根にそっと手を触れてみた。一瞬、女は無表情な眼をくる

りと私へ向けたが、また前を向くと拒むように鳥をかたくひきつけた。くるくるっと小さく鳥が鳴

いた。

 私が女の硬くかさかさした横顔を見ていると、男がせせら笑うように、

「へっ、これがこの女のマスコッ卜でね。これさえあれば、こいつめなんにも欲しくないんだか

ら!」と後は荒々しく云うと、女はその蒼白い程の額にちらっといらだたしげなしわを寄せたが、

別になにを云うでもなかった。

 温気でいくらか曇ったガラスは、車の震動のため、かたかたとかすかな音をたてて、その外側に

は夜がどこまでも拡がっていた。あのどこか人間じみたポプラの並木はいつか終り、車の前燈に照

らし出された前方の白い動く道のほかに、見えるものといっては遠くの方にちらつくまばらな人家

の燈ばかり、それさえ赤い螢火のように、一瞬暗いガラスの上ににじみ出てはくるくると踊り、走

り過ぎ、または中途で消えてしまう微細な光影に過ぎない。

(私はしばらく眠っていたらしい)その浅い眠りの中で見た夢の私も、やはりこのように小さな車

に乗って、果てしない夜の底の迷路のような小さな道をがたがた揺れながら辿っているのだった。

 変に熱っぼい夢だったが、気がつくと、私の手足は冷えきっていた。気のふれた女がじっと私の

顔をのぞきこんでいた。運転手は相変らず酒瓶を取り出しては呑んでいた。

 私は相変らずうとうとしていた。少しまえから連続した警笛が後の方でけたたましく響いていた

が、その時横手の窓がパッと明るくなり、賑やかな笑い声とともに一台の乗用車が傍を走り過ぎた。

あかあかと燈のついたその車の中には、花見帰りらしい陽気に立ちさわぐ男女を混えた数名のあか

ら顔が笑っていた。

 ようようと冷やかすような声と一緒に開いた窓から二人の男の首が出、投げつけた桜の枝がトラ

ックの前窓に当ると、パッと花びらが飛び散った。

 私か夢でも見るようにその状景を見ていると、ぶつぶつ呟く声が聞えた。見ると運転手が何か云

っているのたった。乗用車の人間に対しての何か罵しりらしく、かなり酒もまわっている様子だっ

た。ひどく前かがみの姿勢をとっている。一方、私はまたうとうとし始めていた。何故か眠くて仕

方がなかったのだ。そして後から考えても、その時起った出来事が全く夢の中でのようにぼんやり

と思いだされるのだが――。

 激しい車の振動に眼を開いてみると、物凄い速さで車が飛んでいるのだ。運転手はまるで何かに

取り憑かれたように髪を振り乱して前方をみっめている。前方の闇に――ニつの赤い尾燈がゆれ動

き、のろのろと橋の上にさしかかると急にぐっと近寄った。私は低く押えつけた声で叫び、男の手

を掴もうとしたが、不意に大きく眼の前に迫った乗用車の向うの窓からわいわい云っている男の顔

が急に暗く傾いだ。喘ぐような女の声を押しつぶすように金属がきしみ、ぐらりと車体がゆがと、

乗用車の黒い影が窓をかすめて斜めに飛び、同時に私と女は激しい衝撃に前へ転げ落ちたのだった。

そしてガラスのかけらが降りかかり、ばりばりと木材の折れる音がして、風がさっと吹きこんで来

ると、後は急に静かになったのだが。

 ――眼を上げて見ると、車の右側がはがれたように、はるか下方の河へ向って開いており、運転

手の姿は見えなかった。

 左側から転がり出た私は、半ば橋げたを壊して止まっているトラックの後ろを廻って河の中をの

ぞきこんだが、そこにはただ黒い水が流れているだけで何も見えるものもなかった。

 女が車の後部に顔を伏せて何か叫ぶように云っていた。

「おおい、おおい」私は橋の上から川下の方へ向って二、三度呼んで見た。しかしそこにも応える

ものはなく、ただ真黒い水が渦をなして流れている。

 さらさらとよしの葉ずれの音が絶えず聞えていた。丈の高いそのすきまからは小さな流れが白く

光って見え、その間を縫ってどこまでも続いていた。よしきりの鳴く鋭い声が、不意にその中をつ

き通り、また突然闇に消えた。

 歩いている私達――(それは何と奇妙な同志だ)――気のふれた女と、ちんばの男と、それにも

う一羽、さっきからずっと女の腕の中で眠つている赤い羽根の鳥。歩きながら女は時々それを腕の

中からとり落しそうになり、そのたびにあーあーと泣き叫ぶような荒い溜息をついた。

(それにしてもなんということだ)――と私は思った。あの黒い水が一瞬の内に人間を呑みこみ、

そして後はただの黒い水の渦……眼を放してあたりを見まわした時の私の眼に、ただ茫々と連なっ

たよしの白い穂先の群が見え、その上に一点かすかに浮んでいるあかり……私ははっきりした理由

もなくその方へ向って歩きだした。すると、女が何やらはっきりしない発音で叫ぶと、私の腕を懸

命に引っぱった。(女は私について来たがったのだ)それから私はこの女と一緒に歩いている。あ

の道の上から見えていたが、今はよしの陰になって見えない燈りに向って。

(運転手は恐らく溺れ死んだのだろう。でなければドアがはがれた時には死んでいたのだ。どの道、

この気のふれた女の兄はこの世に居ない。あの燈のついた家まで行って、そこの人にそう言おう。

そしたら後は警察に連絡するなり、死体をひき上げるための便宜なり、何か方法を教えて呉れるだ

ろう)

 鳥は相変らず女の腕の中で、羽根の下に首をつっこんで眠っていた。女ははっきりしない暗い顔

をすこしうつむかせ私の後を歩いていた。じめじめと湿った道だった。黒い沢がにが大きな手を振

り上げて私達の数歩先に立ち止まり、それからさらさらとよしの茎の問に滑りこんだ。すると水音

がやおらかく耳をくすぐった。

 私は女の手をとった。その手はしなやかでひどく冷たかった。女は不思議そうな顔をして私を見

上げた。

「なんでもない」………私は云った。

 女は納得したようにまたうつむくと、そっと鳥の柔毛に頬をすりよせた。

 その時、私は何故かこの女と、心の一番奥の所で妙に通じあっているような気持があるのを感じ

ていた。それは気のふれた者固有のぎらぎらとすさんだような光り方をする眼もそれから子供っぽ

い態度や不完全な表現、そんな外に表れたものによってではなく、どこか心の暗い一点に――その

暗さはこの夜の闇のようにどこまでも底深くつかみようがなかったが――どこかその一点に切れな

い糸のようなものでかたく繋がれていて、そのつながれた二人がどうにもならない暗みから、明る

みに這いでようと盲らめっぽうに手をさまよわせている人間の形がお互いなのだという意識にもと

づくもののようだった。

 いつか私達はへんに白っぽくて拓けた場所に出ていた。そこは一面のすすきの原であった。向う

の方に黒く小高い丘が続いていて、原はその丘の麓とよしの林の間をうずめて横長に拡がっている

様子だった。細くて乾いた道が私達の眼の前に伸びていたが、それは横手に折れて、私達を燈の方

角へ導いてくれそうだった。

 私達はやはり無言のまま手を取り合い前へ進んでいった。爽やかな草の葉ずれの音ばかりが私達

の腰のあたりを流れ、今は横手に連なるよしの白い群生の間から時折、例のかん高い声が響いた。

 雲の裂け目から漂い出たぼんやりした月光が、いつか草原の上にも下りて、わずかに頬を掠め過

ぎる風がふとその上に途惑うと、すすきの群はいっせいに立ち上り、さやさやとあたかも見知らぬ

老人の白い蓬髪のようになびき乱れた。するとそれが私達の行く細い道の上にも零れて来て、道を

殆んど覆い隠してしまうのであった。

 私達は終始黙って歩いていたので、草ずれの音やよしきりの鳴き声の外に夜のひばりの鳴き声も

耳にした。それは突然、まるで誰かがビピーと口笛を吹いたかのように起ったので、ふと横手のよ

しの崖の方に眼をやると、そこに思いもかけぬものを見てぎくりとしたのだった。よしのはずれに

一人顔の赤い男が立って、こっちを見ている!と思ったから。(しかしそれはすぐただの鬼百合

群生だと分ったが)気味の悪いその暗示のために、しばらく私達は追われるような足どりでよたよ

たと走りつづけたのだった。

 突然、橋の上から見えた燈がすぐ間近に現れた。それはよしの林の中からぬっと突き出、一方が 

河に向って立つ一軒家であった。(燈りは裏手の格子窓から漏れていたのだ)私達が家にそってま 

わっていくと、河の方へ降りていくやや広い道に出て、道に面した戸口の前には番台に似た形のも

のがしつらえられ、その枠の後ろに白い袷を着だ男が坐っているのが見えた。百姓らしいイガグリ

頭で、その頑丈そうな首は眠たげに前に傾いていた。

 私達がその方へ近寄っていくと、眠っているとばかり思ったその男が不意に喋った。

「一人、十円」

 ごろごろした年寄り臭い声だった。

 思わず立ち止ると、

「渡し賃」

 ヌッと油ぎった掌を突きだし、じれったげに、

「渡るんだろ、さ」とあごを突きだした。

 見れは夜眼にぼっと白い河の上に、四、五艘の川舟が縦に繋がれ、舟と舟の間に渡板がのせてあ

る。ここを通る人は舟と渡板の上を歩いて向う岸に渡るものらしい。

「違いますよ」私は男をみつめていった。

「私達は頼みたいことがあってここへ来たんですよ」

「違う? 頼みたいこと? じゃあんたがたはここを渡らないのかね」

 男はわけがわからなそうに腰をおとすと、改めて私達をじろじろ眺めた。

 ここに電話はないでしょうね、私が訊いた。

「電話? そんなものはないよ」

「河上で人が死んだんです。六人の人が橋から落ちたんです」

「人が死んだ?」

 男は坐ったまま眼を落した無表情な顔付でぼそりと呟いた。しばらく黙っていたが、やがて喉を

動かして私を見上げた。

「俺にそれを云ってどうしようというのだね」

 と意外な返事だ。

「分ってるじゃありませんか、死体を引き上げねば……」

「迷惑だ」

 男は低いが、あっさりと断ち切るような調子で云った。

「いいかね。私にはそんな事の手伝いをする暇はないんだ。ここに坐っていなければならないし、

それに死人に関り合うのはごめんだよ」

 河岸のよしが、ひそやかにこすれ合う音をたてていた。いつの間にか風が強くなっていたらしい。

打たれた棒くいの様に、私遥がその家の前に突ったっていると、やがて雨粒がぱらぱらと落ちかか

って来た。

「まあ、こっちにはいりなさい」

 男はうっそりと暗い夜空を振りあおいで云った。

「その女の人の持っていろ鳥は何だね」

 男は、私につづいて軒先にはいる女を見て云った。

「まえに、わしもそれに似た鳥を飼っていたよ」

 男は思い出すようにゆっくりと喋った。

「それも一羽ではなくて何十羽もね。もっと派手な羽色で、朝晩はきれいな声でよく鳴いた」

 軒下に立っていると、男の傍らにつるされた古風なランプが風にゆらゆらと振れた。

「よく卵は生むし、大切にしていたんだが、やがてつぎつぎに病気になって死んでしまった。鳥も

あわれなもんで、死んでしまうとぼろっきれと変らない。朝行って見ると、そこらしゅういくつも

転がって、じっと動かない白い眼を閉じているんだ」

 やがて、雨の匂いがひんやりと鼻をおおった。見上げれば、真黒い空の果てから絶えまなくなだ

れ落ちてくる陰惨な水の垂れ幕。それは一時の間に、いつやむとも知れぬはい然たる豪雨になってい

た。

「これじゃあ、仏は海まで流されますなあ」 

 男は急に笑い出しながら云った。

「まあ、あんた方は、今晩はここに泊って、明日は多分雨が止むだろうから、この渡しを渡って町

に行きなさい。歩いてものの三十分だよ」

 雨水はみるみる道路一杯にひろがり、急速に河へ向って流れ下っていった。雨足に叩かれる河が

白くぼっとかずみ、女はしゃがんだまま眼を半分開いてそれを見ていた。鳥も驚いたように急に身

震いすると、首を伸ばしじっと黒眼を見開いていた。

「ふれふれ、何もかも流れるがよい」私はそう思ったが、やはり同時に(明日雨が止んだら町に帰

らなければならないようになる)

 と漠然と考えていた。

 男は時々立って、河の方へおりていき、舟の水をかい出していた。

 そして、とうとう雨は夜中じゅう降りつづき、夜が明けてあたりが白んで来ても止まなかった。

私達は土間に入れてもらい、湿った畳の上でしばらく横になった。

 眼が覚めた時、雨の音は止んでいた。閉め切った戸を開いて外へ出ると、昼近くの直射光線がき

らっと落ちて来て私の眼を眩ませた。私は女を起すと、ゆうべの内にひもで結んでおいた鳥を渡し

て表に出た。

「やあ行きますかね」

 昨夜から一睡もしなかったらしい男が番台から声をかけた。

 河は昨夜よりずっと幅も広がり、水量も増し、黄色く濁った水はごうごうと音を立てて流れてい

た。

 男が手を大きく対岸の方へ伸ばし大声で喋っていた。

「この渡しを渡ってどこまでもまっすぐ行けばすぐ町につきますよ。そこには警察もあるし、昨夜

の事を話せばすぐなんとかしてくれるでしょう。御覧のように私は勤けないんで、あなた方ご自身

で行って下さい」

 私は一晩厄介になった礼を述べると規定の渡し賃を置いた。さあと、女を促して渡板を渡り始め

た。渡板はしなり、両側でかたかたと明るい音を立てて鳴った。板の表面は昨夜の雨を吸って、黒

い色に湿っている。私はふと、足を停めた。あたりが静かだった。昼近くの陽が真向うから照らし

ていた。女は私のすぐ後ろで、私の腕をつかんで立っている。その瞬間、すべての時が停止したよ

うな奇妙な感じを受けて、私は立ち止ったのだが――黄色い水は、やはりごうごうと凄まじい速さ

で私の足元を流れていた。

 私達が三艘目の舟に飛び下りた時だった。激しい水流に押される舟を繋いで張りつめていた綱が、

ふいにぷつんと切れる音がして、急に舟がぐっと縦に流された。すると同時にもう一端の綱もたわ

いもなく千切れて――あっと思わず重心を失くして、もろともに舟底に打ち倒れると、舟はくるく

ると廻転しながら河の真中をぐんぐん流れだした。

 眼も眩むような速度と廻転だった。起き上りも出来ず、舟底に打ち倒れたままの私の眼に凄まじ

いまでに真蒼な空か大きく迫った。

「おおい」

 渡しの男の声が、その時遠くから聞えた。

 突然、さっと風を切る音がして、女の腕の中から鳥が飛び立った。それは、まるで今までこの峙

を待ちかまえていたような、ためらいのない力のこもった飛翔だった。

「………」

 女はかすかな溜息に似た嘆声で、その鳥の黒い影が次第に空の一点に吸いこまれていくのを呆然

と見送った。

(この舟は海までいくんだな)

 とりとめもない私の心のうちに、そんな考えが一瞬浮び、思わず微笑したのだが、眼は、見えな

くなった鳥の小さな影を探しているのだった。

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2010-11-24

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こころ-夢の河辺で-

<前の10日分

2010-10-29 獣の眼(下) 編集

 いったい、どの位の月日が経ったであろうか。おまえは時間の観念をすっかりなくしてしまって

いたので、全く見当をつけることが出来なかったが……。

 ――その日は、朝から妙に暑苦しく、おまえは檻の奥の日陰になったところで、冷えびえする壁

に体を寄せ、舌をだらりと垂れたまま、いかにも暑そうな埃っぽい前の道を眺めていた。

 一つの影が道のずっと先、おまえの檻の右手に現れ、徐々に近づいてきていた。不意にぽっかり

と、その映像はおまえの眼の中に落ちこみ、おまえは一種の懸念をもってその影を見詰めた。それ 

は、恐らく何でもなかったかも知れない。それは普通の見物客に過ぎなかったのかも……しかしそ 

の時、かすかに遠い日の記憶が頭をもたげていた。不思議に心が惹きつけられる或るまばゆい記憶、

それに、あの男がどう関係したか。

 男がおまえの檻の前にさしかかった時、突然、おまえは呻き声をあげた。頭の中の激しい痛みに

よろけながら鉄柵に近づき、おまえを見守るその男をじっと見詰めた。奇妙な感激が、おまえを波

のようにゆすり、おまえはそれが誰であるかを思いだそうとしていた。

 眼の前に、黒い樹木が殺到し、おまえの上に打ち倒れた。

「なんちゅうこった!」

 頭の上で太い声が響いた。

「完全に失敗だ! こんなことになろうとは思わなかった」

「けれど園長」

 別の声がからんだ。

「奴さん、なかなかの努力家ですよ。それだけは認めてやらなくちゃ」

 聞き覚えのある声だった。頭を上げて見ると、がらんとしたうす暗い部屋の正面で、飼育人が椅

子に腰をかけている人物に向って、手を振っていた。たった一つの照明を背にした人物の椅子がぎ

いぎいきしんだ。

「馬鹿なことを云うな。わしは絶対に情状酌量はせんぞ! 肝心なことは、今この人間ハイエナを

どうするかということなんだ」

 飼育人がせきばらいした。

 「ハイエナ人間ですよ」

 「うるさい! こまかいことをつべこべ云うな。要するにだ。こやつはわしが思うにはだ。その反

社会的な性格により、実に全く、自己の責任においてハイエナになったのだ」

 「個性の展開ですな」

 「しかし、ここに困ったことが起きた。このハイエナは全くハイエナらしくないということなん

だ。しょっちゅう気絶したり、妙な風に叫んだり、食物に寄りつかなかったり、どうもいったいにに故障

が多すぎる。もしも動物学会から調査に来たりしてその間の事情が明るみに出るようなことになっ

ては、当園の名誉にも係ることだし、ひいてはわしの首も安泰というわけにはいかないというわけ

だ」

「なるほど」

「ふむ、おまえは妙な時に合槌をうつな。だがよし、わしはもう決意したのだ。こういつまでも放

っておけない。すぐに処置しよう」

「しめる……のですか?」

 飼育人はのどに手をあてて、後ろに飛びさがった。

「わしの云うことが分らんのか。逆だ、解放してやるんだ」

「でも、まさか」

「そうだ、もどしてやるんだ。ホモ・サピエンスの直接の子孫にな。だが、精神も元どおりとい

うわけにはいかん。記憶が残っていたら、当園の名誉を裏ぎるかも知れないからな。さあて、これ

でまあうまくいったら、これからはぼつぼつ私の方の仕事も手伝ってもらうことにしよう。これも、

今までの君の働きを見こんでのことだが」

「ちょっと待って下さい。手違いが……」

「おい、まだ何か云っているのか。こまかいのが君の欠点だが、もういい、もういい、よしと、これで万事快調さ!」

 と、急に眼の前で黒い網目がひろがった。みるみる網目は近ずくと、おまえのまわりにぼろっ布の

ようにまといついた。息苦しい感じが吐き気をともなっておまえを襲い、おまえは急にその場から

逃げ出したい思いで一杯になった。

 

 ……おまえは相手から眼をそらし、門の方へ向っで歩きだした。

 門から出ると、おまえは最初から定められた行動で、駅へ向った。私設電車に乗り、或る駅へ着

いてそこで乗り換え、こんどは国電に乗って、おまえにはなじみ深いと思われる一つの駅で降りた。

改札口を出、十分ほど歩き、家に着いた。

 六畳へ通ると、友子が現われ、おまえの服を脱がせて呉れた。次の間で、赤ん坊のぎゃあぎゃあ

泣く声が問えた。風呂がわいているというので、すぐに一風呂浴び、あがって飯を食った。飯を食

っていると、友子が何か言い、おまえがそれに答えた。おまえはひどく愉快な気分だった。新聞を

読み、テレビを見た。それからしばらく、友子と家計のことで議論した。友子が急に笑いながら、

おまえに飛びついてきた。……

 翌日は、目覚ましの音で眼を覚ました。赤ん坊は相変らず泣いている。おまえは、友子の仕度し

た朝飯を食い、小さなショルダーバッグを持って家を出た。会社に着くと、タイムレコーダーを押

し、しばらく同僚と雑談した。それから車へ乗りこむと街へ出ていった。相変らずだった。おまえ

の車は、恐ろしいスピードで街を飛ばし、客を目的地へ送り届けた。その日は客がついて、稼ぎ

はノルマをざっと二千円オーバーしていた。会社に帰ると十時を少しまわっでいた。係から伝票を

もらい家へ帰った。友子は赤ん坊を抱いたまま眠っていた。おまえはは煙草を一服すると、傍に敷

いてある布団にもぐりこんだ。

 翌日、会社へ行くと、労組の連中が来ていて、おまえに、やあといった。おまえも、やあと答え

たが、それ以上話さなかった。もっとも向うは話しかけようとしていたようだが、おまえはまっす

ぐ車庫の方へ歩いていった。車庫の横手の壁にビラが張られ、それには、「下車勤制度反対」と書

かれてある。それを見ると、さっき労組の連中の顔を見た時のように、何故か、後ろめたい思いと

同時に、頭の奥の方が痛みうずくような気がしたが、車に乗ってからは、そんなことはすぐに忘れ

てしまった。都心に出ると、おまえは車を徐行させながら左右へ眼をそそぎ、合図をしている人間

を見つけるや、それをひったくるように乗せ、目的地へ突っ走った。

 いつからか、或る意志がおまえを支配し、お前を勁かしていた。おまえは絶えず歩道の方へ眼を

配りながら、合図している人間を見つけようとした。そして、本能的にそれに向って近寄っていく

と、できるだけ手早く事を運んだ。

 おまえは時たま、駐車禁止の立礼のない路傍に車を止め、また待ち時間などを利用して、紙はさみに挟んだペラペラした表に、走行距離と料金を克明に書きいれた。そして、その料金の合計額

が或る一定の額に達するまでは決して一息いれるようなことはしなかった。時に、おまえは十二時

過ぎの一杯飲屋に立ち寄り、酒で活力を養うこともあった。が、それもごくまれで、よほど疲れた

日でなければやらなかった。

 また時に、おまえは公園などに車を乗り入れ、そのまま眠りこむこともあった。それは時間の節

約にもなったが、何よりも仕事の上での便益にほかならなかった。

 おまえは殆んど何も考えなかった。ただ、何かを考えるように強制される時はあったが、その時

は必ず、頭の奥の方に錐でもむような痛みを感じ、考えをさし止めてしまうのだった。会社の運転

手で、ノルマや下車勤制度のことをぶつぶつこぼしている者はいたし、実際におまえに向って話し

かけてくる組合員もあったが、おまえはなるべくそうした連中とは離れ、顔が合ってもあたりさわ

りのない話でごまかすことにしていた。おまえにとってはっきりしていることは唯一つ、働くが上

に働かねばならないという意識だった。おまえはまるで偏執狂のようにその意識にとらわれていた

が、それが辛いなどと感じたことは一度もなかった。それどころか、かえって不思議な昂揚状態に

心を支えられ、常に楽しくさえあったのだ。

 ある日の夜、おまえは郊外へ長路離の客を送りとどけてから、また都心にとって返し、折からの雨で右往左往する車の混雑の中で客を求め、ゆっくり流していた。

 フロントグラスにすべり落ちる雨滴は、ネオンの光を映して七色に染まり、見通しは悪かったが、

雨の日こそおまえの書き入れ時なので、左右への注意は怠らなかった。だが、その夜は不思議と客

がなかった。約一時間ほど、同じ盛り場を廻って見たが、かれこれ八時にもなるし、ノルマにはま

だ三分の一にも満たないしで、おまえはいくらかいらいらしていたが、その時ふと思い直して、

まだ行ったことのないS駅の附近へ行くことを思いついた。そこなら附近にちょっとした住宅街も

あるし、雨に降りこめられた通勤者が大勢いるような気がしたのだ。おまえは、そこからほど遠く

ないS駅まで一直線にぶっとばした。案のじょう、S駅の出入口は雨に降りこめられた通勤者でご

ったがえしていた。迎えの傘を待っている者、ただぼんやりと激しい降りに見とれている者、おま

えの車はあっちからもこっちからも引っ張り凧、行っては返し、返っては行き、またたく問にノル

マのあらかたを稼いでしまった。

 もう、その時は十一時にもなっていたろうか、おまえはもう人影のほとんどないそのS駅の横手

へ車を置き、もう一電車待って見るつもりで、その間附近の公衆トイレで小用をたした後、あらか

た小降りになった雨の中を駈け戻って来た。すると、車の後部扉が開いているのだ。

おやと思い、のぞきこんでみると、一人の会社員風の若い男が、かなりひどく酔っぱらっている様

子で、後部座席によりかかり首を垂れ、眼を閉じているのだった。

「ダンナ、どちらまでですか」

 おまえは、その若い男の肩へ手をかけてゆすぶった。

「ああ……」

 その男は大儀そうにだらしなくゆるんだ顔をあげて云った。

「ХХ町までやって呉れ」

 おまえは、おや、と思った。その若い男の顔がなんとなくおまえを惹きつけたのだ――どこかで

会った顔だ――と思った。

 おまえは運転台に乗り、わざとゆっくり車を動かしながら、注意深くバックミラーに映る後ろ

の顔を眺めた。……白い、むしろ青ざめた顔、しかしそれも酔いのせいかも知れない。陰うつにひ

そめた濃い眉、こけた頬の線、意外に赤い女のような唇、いったい誰だったろう、この男は。

「君」

 突然、男が声をかけてきた。

「え!なにか」

 おまえはどきりとして答えた。うしろの男が、おまえの視線に気づいたのだろうか。しかしそれ

は違っていた。続いての男の声は、もっと唐突な響きだった。

「……君はどうせ、僕にとっては関係のない人だ」

 弱々しい、自からを嘲けるような口調が、かすかな笑いにまぎれて続いた。

「こんなことを聞くのは変なことだが、君は、人の考えがその人から離れて、他の人間の中へ飛

びこむってことがあり得ると思うかい

 (酔っているんだな)と、おまえは考え、笑いながら聞き返した。

「え! なんですって」

「いや、突然変な話で驚いたろうが、これは例え話じゃない。またよくいう人が変るっていうこと

とも違うんだ。僕のいうのはね。つまりここに二人の人間がいるとして、その二人の人間の内容が

互いにすっかり入れ替わってしまうことをいっているんだ」

「考えられませんね、そんな馬鹿なこと……」

 おまえは、話の意味する中味にぞっとしながら答えた。(悪酔いしてるんだな)

 しばらく沈黙が続いた。

「そうだろうか」

 男はやっと云った。突き放したような口調だった。鏡の中の男は、窓の外へぼんやりと視線を投

げていた。商店街の黒い軒並が後に飛び、車は音もなく濡れた舗道をすべっていた。男はふと、そ

のままの姿勢でもの柔らかな調子でいった。

「じゃあ、君は、人間の内容というものは、絶対に動かすことの出来ないものだと考えているの

だね。それが人間の肉体の殻に閉じこもって、そこから一歩も外へ出ないというんだね」

「勿論そうでしょうとも」

 男の柔らかい溜息が聞えた。鏡の中で、男はうしろに寄りかかり、眼を閉じていた。

「どうしたんてす、そんなうす気味悪い話をしてあんまり酒を飲みすぎたんじゃないですか」

 おまえは強いて笑いを浮べ、わざと声高に云った。

 鏡の中の男は、にっこり笑って眼をあけた。

「いや、そうかも知れない……だけど喋ったお陰で気が晴れたよ……この所、眠れないでね。

そんなことばかり考えて……でも、君がそういって呉れたお陰で、何か安心みたいなものができた

よ」

「ふっ、笑わせちゃあいけませんよ。そんな妄想にとりつかれたんじゃあ、生きていけませんぜ」

 おまえは笑いだしながら云った。車はいつか、ХХ町にさしかかっていた。

「ダンナ、ここら辺ですね」

「ああここだ」

 男は外を見て云った。

「そこの路へ曲ってくれ………よし、停めてくれ」

 雨は止んでいた。ぽつんと一つだけ、青い街燈がともっていて、あたりの高い軒並を浮び上らせ

ていた。

 お釣りはいいよ」

「へえ、こりゃすみませんな」

 おまえはうしろのドアを閉めると、そのまま何気なく、若い男が登っていく石段のある家を見や

った。

「おや、ここは」

 おまえは、思わず呟いた。

 ドアを開いて外へ出ると、しげしげとその家や、あたりの軒並に眼をこらした。道路、樹木、電

柱、なにか懐かしい匂いがするその全体。……すぐに、おまえはくっくっと声を忍ばせて笑いだし

た。

「今夜の俺は、どうもおかしい」

 ドアをパタンと閉じて走り出した。車を走らせながらも、おまえは頭を振った。

 会社へ着くと伝票をもらい、そのまま家へ帰った。十二時だった。友子は起きていた。煮物が火

鉢の上で湯気を立てていた。友子の笑顔と、赤ん坊の安らかな寝顔と、温かい食事が、おまえに今 

日のことを忘れさせ、やがて、おまえをやわらかく平和な眠りに包みこんだ。

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おおつき 2010/11/15 22:01

どうして変なところで改行をしているのかと思っていましたら、このページを開いてみて納得しました。

画面によって文字数が違うのですね。

縦書きにコピーしてから、面白く拝見いたしました。

これは小説のジャンルに入るのでしょうか?

一番初めに動物園を去った男の行方が気になります。

kuromura 2010/11/17 10:58

獣の眼は以前同人誌「城」に発表した小説です。

小短編が100になったので、とりあえず旧作で穴埋めし、あとのことを考えたいと思います。m.tsutsumi

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2010-10-22 獣の眼(中) 編集

 ――生きるということがどのように行われるか――もし誰かがおまえにそう尋ねて見る気を起し

たとしたら、おまえはその時こそきっぱりと答えるだろう。そうだ、生きるということは順応して

いくことなんだ。

 もちろん、おまえがこのようにきっぱりと自分の考えを云えるようになるまでは、おまえ自身の

心の中で、さまざまの懊悩の発展を経験しているのだ。檻に入った当時のあのヒステリックな感

情が次第におさまり、おまえが自分の置かれている状況をやや冷静に眺めることができるようにな

りかけた頃、おまえはいくつかの脱出の計画をたてた。しかし結局、そのどれをも手をつけないま

ま放棄してしまったのだ。けだし、おまえはそのような冒険を冒すにはあまりにも自分をも偶然を

も信頼できなかったのだ。それにもっとも肝心な問題点は、おまえの体が現実に獣の体であるとい

うことではないか。すべては、それが解決すれば後にもう何の努力も要しないことは自明のことな

のだ。

奇妙なものだ。希望とは! おまえはまだそれによって生きていた。

 朝、太陽が東の空に輝き、おまえの汚わいにむれた寝床を照らす時、おまえは夢から目覚め、

確かな眼でおまえとおまえのぐるりを見まわす。おまえは獣、そしてもはや逃れるすべもない獣、

おまえは午前の時間を、二米四方の運動場に出て、さわやかな空気を吸いながら歩き、彼方のか黒

い森や、池のほとりの美しいたたずまいに眼を向ける。午後の時間は、おまえが見せ物になる時間

だ。おまえは最初それに耐えられないと思ったが、それは馬鹿な考えだった。おまえはそれに耐え

られるどころか、時にはおまえ自身の敏捷な体の造りと、どう猛な性質を示してやるために、大勢

の見物人の前で、高く跳ね上ったり低くうなりながら鉄柵にわざとぶっつかったりしたものだ。勿

論、気が向かなければ眠ったふりをして、ちらりちらり見物人達の様子を眺めていたらいいのだ。

それも結構いい閑つぶしになるものだ。それで時にひどく感動することもある。驚かされることも

ある。

 いつか、見物人の中におまえの学校特代の友人の顔を認めた時だ。その時は思わず飛び上って、

奥の部屋へ駈けこもうとしたほどだった。しかし、それもほんの短かい間、すぐに、おまえを分か

る事など、それがどんなに以前のおまえを知っているとしても、誰にもできる筈はないのだと思い

返して苦笑したのだった。

 おまえは、わざと彼の前にすわってその友人の顔を真正面からじろじろ観察してやった。恐らく

彼は臆病なのだろう。すぐに眼をぱちぱちさせはじめ、やがて、申訳なさそうにひきさがったが、

おまえはその後ろ姿に向ってあらんかぎりの悪口雑言を費やしたものだ。

 おまえは、おまえを見ている人間を逆に見て愉快でならなかった。彼等は、自分達が見ているも

のが単なる獣以外のものであるとは思ってもみないのだ。それは、どうにも我慢できない苦痛と快

楽の練り合せだ。子供連れで、子供にもまさるような立派な阿呆面で口をぽかんと開き、おまえの 

前に立っている人間達。おまえは、わざと見物人の大勢いる前でびっこをひいて歩いて見せる。と

たん彼等は叫ぶ。あ! ほら、びっこをひいている。足を痛めているんだな! 可哀そうに!

 多分――おまえは傲慢なのだろう。そして、その傲慢さが、どのくらいのものかというと、おま

えの苦痛と同じくらいの奴なのだ。というより、いわば苦痛という金を出して傲慢という物を買つ

たといえるかも知れない。そして、おまえはこんどはその自分が買った傲慢という品物を人々の上

にふりかざして、それ相当の代価で売りさばこうとしているのだ。

 さあ! 買った、買った。――

 おまえは、大道商人のようにおまえの商品を見せびらかして叫ぶ。だが、敵もそうおいそれとは

買わない。さんざんひねくり廻したあげく、こいつはもっとまけられる筈だぜ、なんて吐かす。し

かし、そんなのはまだいい方で、中にはこっちがいい鴨だと思っているのが、案外と手強い商売敵

だったりして、どうだいこっちの品物の方がずっと上物だぜ、一つ買わんかね、とふところからも

っとしぶとくひんまがった奴を取り出したりするのだ。

 飼育人の場合も、ちょうどそれだった。もっとも、この場合は立場上自然な成行として飼育人の

方へ勝をゆずらねばならない気味もあるにはあったが、それにしても、平等な条件のもとに立ち合

ったとしたら、恐らくおまえは――降参しただろう。

 彼は、獣に過ぎないおまえを人間的に苦しめようとしたものだ。

 例えば、食物をおまえに与える時にしてもそうだ。彼は決して普通のやり方はしない。まず、肉

片を取り出すと、何か変な歌を歌いながらおまえの鼻先でそれをふらふら振る。おまえはもう慣れ

ているので、横を向いたまま空きっ腹を我慢している。突然、彼はその肉片をもったまま行こうと

する。おまえはハッとして立ち上る。彼はにやっと笑い、又お前の鼻先にもどしてゆすってみせる。

ついに、おまえは、我慢できずに唸りだす。と彼はぽとりとそれを落す。檻の中へではなく、檻

の前だ。彼はそれに土をたっぷりとなすりつけ、ゆっくりと立ち上り、急に勢いをこめてそれをお

まえの顔へ叩きつける。――とまあこんな具合だが、これはほんの一例だ。理由もなく棒でこ突き

まわしたり、聞くに耐えない悪態をつきながら唾をはきかけたりするのは普段のことで、そのため

に随分、彼を憎みもし、また自分でも情けない思いをしたものだ。

 こんな場合、通常世間ではどんな方法で心のうっ憤を処理するのだろうか。咬みついてやること

も出来ない、罵り返すことも出来ない、報復する手段もないおまえの存在全体は、その上まったく

彼の意志にかかっているのだ。

 おまえは、彼をじっと観察し、研究しはじめた。そしてやがて、おまえは彼についての考えを次

のように結論づけ、おまえ自身納得したのであった。

 彼は、世間のすべての人間に劣等感を抱いて、常に他人から虐待されており、そのうめ合せとし

て、おまえを仮に人間と見たててそうした仕うちにでるのだと。それからは勿論、おまえは彼を

憐れみ許すことにした。そう考えてしまえば以前のような憤懣はまるで感じなかったし、肉体の

上に加えられる苦痛は最初から問題ではなかったのだ。……

 しかし、実際にどうにもならない苦痛はやはりあるものだ。そして、そうした苦痛は、えてして

自分の外側からやってくるよりも、自分の内側にちょうど何かの病気のように居すわっていて、

時々、ちょいちょいと針のようなものでつつくのだ。すると、おまえは急に息苦しくなり、毒がま

わったように七転八倒、ついにはその苦しみから逃れるために自分で自分の首を締めようとしては

それもできず、誰か俺を殺してくれ! と叫びだす始末だ。この得体の知れない病気。(だが、一

体こいつはいつからおまえの中に住みついたのか?)たしか、おまえが「閉じこめられた獣」にな

ってから……いや、それともずっと前から隠れていたものが、こういうことになったので急に暴れ

始めたのだろうか………。

 時には晴れたまま、そして多くは曇ったまま、毎日訪れる日暮、落日。日中の騒音が徐々に夕も

やの中にとかされ、おまえだけの不思議な夜がやってくる時、それはまるで一晩ごとに新しい扮装

でやってくる青白いこびとのようだった。見物客の見世物になることは、おまえにとってなんでもな

い。彼等はおまえの外形だけに関係することだから。飼育人の手ひどい仕打は、おまえには偶然の

災悪以上の意味はなかった。しかし、おまえは自分の中に巣食う精神がおまえ自身をさいなむ時、

おまえは自分をどうすることも出来ないのだ。(いったい、あいつがおまえ自身の精神だろうか? 

それなら、どうしておまえを苦しめたりするのだ)

 夜のとばりが、おまえの住居をつつむ頃、そいつは、溜息のようにおまえの中で動きだす。そして、

最初は聞えるか聞えないかの囁きが、おまえの耳に不思議な話をそそぎこむ。……やっと一日が終

ったね。………やっぱりなれた事とはいえ、こうして済んでほっとするよ。さあ、ここで煙草でも

ふかしたいんだけど……おっとっと、禁物、禁物、外の世界とはわけが違うんだった。ここは檻の中、

でもまあこのところ、健康そうでなによりだと思うよ。健康って奴はいいものだからね。無邪気で、

明るくって、ただちょっぴり退屈ではあるけど……え?…ああ、退屈って云っただけさ。……やが

て、そいつは際限もなく喋りだす。最初のゆっくりがだんだん早くなる。ついにはべらべらまくし

たてる。それとともに、おまえの心はえぐられるような痛みを感じる。血がどっと流れだす。と、

おまえは気が狂ったように叫びたてる。獣め! このけからかしい獣め! すると、そいつは得た

りとばかりげらげら笑いだすのだ。

 これはいったいどういうわけなんだ。おまえの精神、少くともおまえの中に住んでいるそいつが、

おまえをからかう。からかうだけではない。そいつは、おまえの記憶や想像をつつきまわして、外

の世界のことを無理やり思い出させたり、血のしたたる鶏頭を食べる現在のおまえを鼻で笑ったそ

のあげく、おまえがうろうろと檻の中をかけまわったり、食物を見るたびにのたうちまわるのを見

て、有頂天になっているのだ。いったい、そんな恩知らずがあろうか。考えても見よ。もとはとい

えば、おまえが不潔な食い物でも食べ、せまい檻の中で忍耐していればこそ、奴も生きながらえてい

るのではないか。

 それなのに、奴は奴そのものの存在の根拠でもあるおまえを苦しめることを趣味にしているん 

だ。きっと奴は、この上ない高慢野郎に違いない。それで、あいつはおまえと一緒に住んでいる癖 

に、おまえとはまるで違った生れででもあるかのようにおまえを見くだしているのだ。そして、自

分はそれこそくわえようじで下賤な仲間が早く死んでしまえばいいなんて思っているに違いない。

 が、一体、そんな喜び方があろうか。そんな苦しめ方にどんな意味があるというのだろう。……

しかし、もうこうなったら、おまえは自分の中に、やがてはおまえの生命そのものを亡ぼすものを

飼っているのだ! そして、そいつがおまえの精神という奴だ。かって、お前が人間であった頃、

おまえをそのように人間として支えていた理性や、美的感覚、そいつらが今、おまえを殺そうとし

ているのだ。

 それは、おまえは獣であり、そして閉じこめられた獣に違いない。だが、少くとも、ここで生き

抜こうと努力しているおまえを、そいつは鼻で笑って、蹴飛ばそうとしているのだ。おまえは、見

る影もない獣に過ぎない。だからこそ、おまえは自分の現状に適応しようとしているのだ。生きよ

うとしているのだ。なのに、そいつ――おまえの精神は、その努力をあざ笑い、その空虚な観念の

世界の中へおまえを浮かび上がらせ、そこでおまえを抹殺しようとする。そいつは過去の中から持

ちこまれた亡霊のくせに、現在のおまえの首をしめようとしている。……

 おまえは、早くから寝わらの上に横になることにした。そして、眠りが早く訪れるように、残り

の夜の時間をせまい檻の中での荒々しい運動にすごした。

 そして、おまえは殆んど夢も見ずに眠る。一匹の獣として、完全に獣だけの存在として……そし

て、おまえは徐々に成功したのだった。そうした暮しを続けるうち、おまえの中から、過去の亡霊は

力を失い、もう最初のうちほど苦しめられることがなくなった。習慣と怠情がおまえを支配し、無

為のうちにおまえは肥った。――

 朝、けだるい眼覚めとともに、明るい太陽が東に昇り、うす紺碧の空をよぎりつつ午後に近づく

間、おまえはぼんやりとかすんだ眼を漠然と外へ向けている。やがてあたりに人影が立ち、ざわめ

きがおまえの前を流れていく間、おまえは温かい日差しを浴びて眠ったり、ふと何気なく立ちあが

って通行人の顔を眺めたりして過ごした。時には以前人間であった頃の事を思い出すこともあった

が、それも、ちらと頭をかすめる影のような思いで、かっては現実であったものも、今は幻想のよ

うに弱々しく実感をなくしたまま遠ざかっていた。

   

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2010-10-14 獣の眼(上) 編集

 なにがどうなのかさっぱり分らない。まわりは真の闇、一寸先も見えない。完全な網膜像の喪失

――第一自分がどんな形をしているやら、手をもっているのやら、足がついているのやら、それす

ら感じられない。まわりには息苦しい闇が一杯だ。一体どっちが下だろうか、上だろうか、とらえ

どころのない空間をぐんぐん落ちていく感覚、無限の時間を漂っている感じだ。純粋な恐怖がひし

ひしと身をしばり、もうやめてくれ! と叫びたくなったその時、一筋の光が前方から進んでくる

のが見えた。夢中でその光の中へ泳ぎいり、ほっと息をついた。――次第に視野が明るくなってく

る。眼の前に網目のよう に黒いものがぼっとひろがって見えた。樹木だ。

 

         1   

 一滴、そして一滴、水しずくがその黒いものの下でみるみるふくらむと、やがてきらりと光って

めまぐるしく地面に落下していった。点、点、点、湿った地面の上にいくつもの小さな穴があく、

それが又、次のしずくで崩れ去る。限りない水滴の落下のあいだから、ひっそりとしめった匂いが

そこらじゅうにしていた。

 金網の向う側に妙に白いものが立つたまま動かずおまえを注視していたが、おまえはわざとその

方を見なかった。例の一本足で立っているくちばしの長い鳥を、改めて見るまでもなかろうと思っ

たからだった。鳥は囲いの中にいれられていた。それは桜の樹間に、それよりは少しばかり高く在

る、釣鐘を伏せた恰好のいれものだった。赤く錆びだ細い鉄骨が横骨に組まれてまるくめぐらされ

上方は曲りつつ一点に合わさっている。それはどこか中世風の悲しみをみせている鳥の檻である。

 都会の郊外にあるこの有料公園の中に、最初はこの鳥の檻だけがあったのだが、今では動物も増

えて新しい囲いや檻ができている。

 真黒い毛皮の動物がその中でしじゅう首をぶらぶらさせている四角で小さくて頑丈な檻、コンク

リートの高台の上にあの鼻の長い動物を引きとめているくさりと幅広く深い溝の囲い、角の生えた

動物をその中に遊ばせてある木の囲い柵、一つ一つ見て廻れば、この檻という動物達を閉じこめる

ための人為的な工作には、実にさまざまの方法があることが分る。それはなかば、そこに入れられ

ている動物の習性に従いながらも、なお広さや高さの点においてこまごまとした制限を与えている

のだ。

 閉じこめられた動物達は、彼等の以前住んでいた世界をもっと収縮し、要約したちゃちな箱庭を

与えられていたが、それとても、あたかもそれらの環境でもって生かしてやっているではないかと

いう厭味と、もはや絶対に自由にはさせないぞという真意を無言のうちに悟らせてやまない恰好に

である。

 おまえはその有料公園の中を歩くうち、いつも同じ方向から聞える動物の唸り声を耳にした。そ

れはまだ檻に入れられて間もない虎で、堅いコンクリートの床の上をぐるぐる廻りながら、囲まれ

た鉄柵の内側でたった一匹で吠えているのだったが、その絶え間ない驚くほど規則的な同じ調子の

吠え声は、深い生理的な苦しみそのまま、おまえの胸を痛くしめつけるのだった。

 動物を閉じこめるための檻というものは、いったいいつごろから造られ始めたのであろうか。恐

らくは最初、人類の狩猟時代、捕えられた凶悪な獣を単に一時的に拘禁する目的を有していたに過

ぎないこのいれもの、それが観賞の用途にまで使われだし、その中にあらゆる種類の動物を収容す

るようになったのはいつの頃から始まったことだろうか。

 今、人類はその方法の発達した様式として動物園をもっている。それは人々がその園へ金を払っ

て入り、そこここに閉じこめられた動物達を見物する時、殆んどそれが、閉じこめられているとい

う形容には全くそぐわないほど、その環境が動物達に自由を与えているかのように思いこませるの

だ。

 オットセイの水泳、豹の木登り、猿の岩山、狸の洞穴、おまえもそこで動物達がありあわせの材

料ではあるが、それを利用して遊び或いは生活しているのを見て、その自然そのもののようにみえ

る優美な動きにうっとりするのだ。

 動物達を見るのは楽しい。特に危険な動物を安全の立場から眺めることは。そしてそれが自然の

ままの姿態に近いものであればあるほど喜びは大きいわけだ。

 しかし、いったいそんな喜びがなんだろう。おまえの中で、突然、前ぶれもなくその喜びは消え

る。そして、おまえはその時、ずっと前からそうであったが、今もそうである真実――彼等が囚わ

れの身であることに気づくのだ。彼等は囚えられている。……彼等の生活は彼等のものではない。

彼等の勤作は彼等によるものでない。……それからはもう、前には動物達を見るごとに新奇な喜び

に胸をときめかせたおまえが、今はそれらの動物達を見るたびに別な悲しみに打たれるのだ。

 金網の向う側に、鉄柵をゆすぶって立っているどこか山男に似た黒猩猩を見たとき、悲しかった

ように――前には喜びであったものが、今は別な悲しみにとらえられる。(おまえは人が変ったの

だろうか)動物達の姿勢もなんとなく物憂げで灰色じみ、見るからにつまらなそうな様子をみせて

いた。

 彼等は囚えられている。彼等はもうどこへも行くことがない。彼等は檻の中へおのおの入ってい

き、そのまま死んだのだ。彼等は獣ではない。檻の中に住まうのは、ただ人間のものになった彼等

の形骸とそのおおぎょうな身振りだけだ。(いったいいつからだろう。おまえがこんな風に考えは

じめたのは)

 おまえの頭の中には一瞬、古ぼけた都会の地図が浮び、そして課長の顔が交替し、それがにっこ

り笑って挨拶する。おまえは弱々しく首を振るが、そのぼやけた灰色の印象は拭いきれない。やは

り(囚えられている)という考えがいつまでも残るだけだ。

 不意に、バケツを下げた一人の男が現れ、おまえの顔を、そして眼をじっと覗きこみ、去ってい

った。おまえは不愉快になって、また池の端の方へ向って歩いていった。

 池の鯉にパン屑をやっている子供がいた。おまえが煙草の吸いさしを投げると鯉はそれも食って

しまった。おまえは最初びっくりし、そしてしばらく胸をどきどきさせた。(あの鯉は死ぬかも知

れない。明朝もしくは今晩、白い腹を水の上にだして浮んでいる鯉がある! としたらそれはおま

えのせいだ)

 橋を渡って薔薇園に行った。草の生えていない白い砂の上に薔薇が散らばって生えていた。それ

は踏みつけられたように堅く小さくて、赤い花は地上に吐き散らされた血痰のようだった。おまえ

は薔薇園のなかほどにある日時計の傍までいってみた。白い御影石の上で、鉄の尖った針の影が眠

ったように午前十時を指していた。

 不意にぎくりとするような笑い声が背後でした。振りむくと、薔薇園の隅の方にある噴水のすぐ

うしろのベンチに腰を下ろしている女が、口に手をあててさもおかしそうに笑いころげているのだ

った。

 そのかたわらに女の方へ顔を向け、片手を女の肩にかけた男が坐っていた。巨大なイルカの口か

ら吐き出され、垂直に立ち昇る水柱は風に乱されてしぶきを飛ばし、鮮かな虹を架けていた。

 女の白い咽喉と横顔を見詰めるうち、おまえは、ふとそれが友子ではないかと思った。しかし、

それは違っていた。薔薇園を横切って噴水の後の男女から遠ざかりながら、思いなおして呟くよう

に□にだしていった。

「もしあれが友子であったにしても」

 おまえはかなたに聳える黒っぽい建物を眺め、それに向ってゆっくりと歩き進みながら思った。

(もしあれが友子だとしても私にはもう何の関係もないのだ)

 おまえは、友子が最後に寄こした手紙の一節を思い出す。……結局、あなたは私には無縁の人で

す。あなたが私達二人の関係に何一つ有意義な結着をつけることを望んでいない――(或いは考え

てもいない)ということがはっきりわかったからです。どうしてこんな肝心な事がもっと早く分ら

なかったのでしょう。私は自分で自分を笑いたい気持です。あなたや私達がつくっていたあの田舎

でのグループ、あの無神論者達、救いようのないデカダンに憑かれた人達ですら、みんなそれぞれ

模範的な社会人になっているというのに。あなたはまさかまだ、あの陶酔から脱け切れないでいる

のではないでしょうね。……

 読みつづけるうち、その中から女の嘲けりでも聞えてきそうなその章句の間から、おまえは友子

の激しい敵意を感じた。

 (無縁の人か!)おまえは苦笑まじりに呟く。(では何故、友子は私に近附いて来たのだ。……

いまになってそんな事をいうなんて……私は友子と一緒に愛についてもっと深く考えたかったのに

ふん、世間的なあせりのために……これが終りの形か!)

 おまえは侮辱された「関係」について何の抗議もしなかったし、勿論おまえ自身の気持について

手紙を書いて弁解しようなどという気持も起さなかった。そしてその後は、むき出しのままの孤独

がおまえをいっそう偏屈な人間にしてしまったのだ。

 おまえは公園の喫茶室のテーブルにひじをつき、眼の前の花を眺めていた。ありふれた軽音楽が

かすかに室内を流れていたが、おまえは聞いていなかった。おまえは花を、その黒い傷だらけの机

の上でほほえんでいるようなうす紅色の花びらを見詰めていた。何という名の花であろうか、黄い

ろい花粉をまぶしたその水々しい花しべを取りまいて、紅い花びらはさながら燃えあがる焔であっ

た。

 ……花びらが動いたように思った時、おまえはふとめくるめくような動揺を覚え、ふいにおまえ

自身がその焔の真中に飛びこんだのを感じた。――だがすぐに引き戻された。ありふれた音楽が聞

えだし、花はこれもありふれた唐草模様の瓶に生けられた単に紅い花に過ぎなかった。

 おまえはそのまましばらくじっとしていた。次の瞬間に起る何らかの変化を待ちうける心霊術者

のように、ある時を期待をもって待っていた。そして――すぐにそれがやってきた。おまえは再び

こんどは花のその黄いろい中心にまっすぐ飛びこんだ。

 その瞬間、おまえは躊躇のない一匹の蜜蜂であった。おまえは燃えるように明るい花びらの真中

に飛びこみ、花しべを押しのけてもぐりこんでいった。――甘い体をとろかすような蜜の匂い、虫

惑的な魔法の世界がおまえのまわりにひらけ、おまえは恐ろしく無鉄砲な喜びに打ち震えながら蜜

を吸った。おまえはすべて考える能力を失ったかのようであったが、それにも優る喜びを得たよう

だった。単純な本能がおまえを明るくし、次の行動を全く予期することなしに飛びあがると、まば

ゆい花園の上を飛んでいた。

 突然、ワーンという喚声が上から降ってきた。黒煙のような一群が行手をさえぎると、妙な恰好

の蜂がおまえに呼びかけた。

 「どうしたのよ、いったい」

聞き覚えのある声だった。前に女の白い顔が浮んで、不意にどす黒い唇を動かして喋った。         

「どうしたの」                                           

思いもかけぬ、その女は友子だった。                         

「さっきから、じっとこんな所に坐って、私知っていたわ、薔薇園に居た時から」

「あ、じゃあ」

おまえはやっと気をとりなおして口を動かす。

「やっぱりそうだったのか、君だったのか」                               

「驚いたわ、こんな所で会うなんて」

友子は落ちつかむげにそわそわとあたりを見廻している。

「連れがあるんだろう?」                                

「ううん」

友子はあいまいに答えて腰をおろすと、こずるそうに首をちぢめて笑った。

「一年ぶりね」

ありふれた軽音楽が鴫り、廻りにいる人々の間から漠然とした騒音がたちのぼっていた。

「あんた、ちっとも変らないのね」

友子が軽蔑の眼差で見ている。

「昔のまんまさ、やっぱり」

「私は変ったわ、ねえ変ったと思わない」

友子は、突然その派手な水玉模様のブラウスから、とぎつい原色のコートのえりに手をやりなが

らいった。しかしそのえりは肩をおおうほど幅が広く、おまけに赤が強すぎるせいか、友子の顔は

妙に小さく、かつ青ざめてさえ見えた。

「うん、そう思うな」

 おまえはそのコートが友子に似あわないと感じながらそう答える。

「私ね、結婚するの」

「誰と」

「運転手よ」

 友子は得体の知れない喜びで急にそわそわして打ちあけた。

「しっかりした人よ」

「ふーん、それはよかったね」

 おまえはその場をとりなすような早口でいったが、唇に乾きを感じた。

「頼りになる人」

 友子は、おまえの顔を真面目に眺めながら念を押すような云い方をした。

 その時、さっき薔薇園で見た男が入口の方へ歩いていくのが見えた。

「待って、すぐ行くわ」

 友子は声高に男に呼びかけた。

「行くのかい?」

「さようなら、元気でね」

 友子は濡れた歯を見せてかすかに笑うと、男の後を追って入口から駈けだした。

 おまえは、さめてしまったコーヒーを飲みほすと、立ちあかって窓から外を眺めた。窓枠の中に、

肩幅の広い運転手と腕を組んだ友子のうしろ姿が遠ざかっていた。

 おまえは急に疲れを感じた。めまいと無力感がおまえをとらえ、再び椅子にしゃがみこんだ。

 ――ふと思いついて、食事を注文した。しかし、運んできたのを見ると全然食べる気がしないこ

とに気がついた。金を払い、そこを出ると、林を横ぎって映画館の方へ歩いていった。題名はみな

かった。中へはいるとじめじめと湿った匂いが土間のたたきから立ちのぼっていた。暗闇の中から

子供達の叫び声が時代劇の役者のせりふと一緒になって聞えていた。半時ばかりも坐っていたろう

か――ぼんやりと白い画面の動きを眼で追いながら、結局よけい疲れただけで表へ出た。

 太陽は昼間の光を失って西の方へ近づき、林の中はこ暗かった。むなしく単調な光が園全体を包

みこみ、すべてのものはよそよそしい光に浮び上って変らなかった。今は池の向うに在る薔薇園の

傍の通路を、何か歌いながら行く二、三人の子供達がかなり遠くちぢこまって見えたが、それを見

ると、何故かおまえは身震いし、そして出口へ急ぐ足をはやめた。(そうだ! また明日から相も

変らぬ日が続くのだ。それはもう絶対だ)

 朝はかっきり七時に目を覚ます。電車に遅れないように時計を見ながら食事をする。七時半に下

宿を出る。あの急な階段を急いでかけおり、果物屋の角をまがる。そうすると駅が見える。いつも

のとおりの乗客の顔ぶれ、新聞を読みながら三十分、やがてS駅につく。いつものとおりの混雑、

あの街の雑踏、匂い、会社への坂道。タイムレコーダー。八時半、始業開始のベル。朝のお茶、挨

拶、挨拶、あの卑しい挨拶、そうして仕事、きまりきった手順で行われるあの退屈な仕事。……

 動物舎のあたりを通り過ぎている時だった。ふと、足をとめてまわりを見廻した。そして(誰だ

ろう、いったい、今の俺を見ているのは?)と考えてみた。

 おまえは、視線をもとに返して、二本の杉の木の下にすえられた一つの檻に眼をとめた。確かに

その中からだった。その中の何かがおまえを非常に興味深い眼で、つい今しがた眺めた筈であった。

おまえは足音を忍ばせてその檻に近づき、中を覗いて見た。

 檻の奥のうす闇の中に、毛深い一匹の獣が首を垂れたまま、おまえの眼を、ほとんど覗きこむよ

うな眼付で見詰めていた。

 ――暗い陰気な眼……おまえはぞっとしてその眼からおまえの眼を放そうとした。しかし、その

眼は放さなかった。その眼は獣の眼のようでなく、おまえを知っているような眼だった。何事かを

語りかけてくるような、意味を含んだ眼であった。(何だろう?)おまえは、不意に云い知れぬ深

い恐怖にゆり動かされ、夢みるように心につぶやいた。

 (……これは獣の眼ではない。こんな獣の眼があり得よう筈がない。この眼はまるで人間の眼だ!

私と同じ眼だ!)

 突然、檻の中の獣はのっそりと立ちあがると、見開いた眼をそのまま、おまえに近づいてきた。

その黄金色に輝く眼は外光の中でいくらか細まり、おまえの眼の前でかすかな笑いの色さえ浮べて

いた。

 そして――次の瞬間奇妙な事が起った。――その眼の前の獣の姿が確かにそのときおまえの眼に

は霞んで見えたのだ。次に……おまえは気が狂ったように叫びだすべきだったろうか――。

 次に起った事、獣が徐々に人間に変化していくのを認めた時、また遂に人間の姿――もう一人の

おまえ――になりきったその獣が、にたりと笑って鉄柵ごしにおまえを見過ごし、そのままゆっく

り歩き去った時に、いや、おまえは事態の真相がよく呑みこめなかったのだ。現実に、檻の内側の

者が今はかえっておまえであり、そのおまえのからだすら獣のからだに変化しているのに気づいた

時にも、……いや、おまえは叫びだすかわりに心の中でつぶやいた。(ふんふん、これはまた例の

幻覚だな!)そして、むしろ軽い気持でこの全面的転換に始まった幻覚の終る時を待った。

 おまえは、ぼんやりと毛深い獣のからだを鉄の柵にもたせかけ、門の方へ遠ざかっていくもう一

人のおまえの後姿を不思議な思いで見送った。それは確かに、おまえの肉体と容姿をそなえた人間

であった。しかし、おまえに見られている、おまえとは別個の内容をもっておまえから離れてしま

ったおまえの形骸であった。形骸は一度門の所で振り返ったが、その顔は笑ったようでもあり、そ

うでなかったようでもある。

 彼が門の外へ消えた時、おまえは漠然とした不安を感じながらも、奇妙な興味から改めて自分の

体を覆いつくしている淡灰色のごわごわした長い毛を見詰め見おろした。――おまえはちょっとそ

れを唇でさわってみたが、すぐになんともいえぬ嫌悪感に襲われた。

 ――ふっさりと太い尻尾が後に、心持ち巻いてさがっており、四本の骨ばった白い足が敏捷そう

におまえを支えて立っていた。それは確かに獣の体であり、足であり、尾であった。獣の顔を自分

では見ることが出来なかったが、それでもおおよその感覚から、それらが牙をむきだし耳元まで広

がった口と、頭の両脇にぴんと立ったままの鋭三角の耳であることにほぼ間違いなかった。(これ

はどうだ!)おまえはおどけたように□の中でいってみた。

 おまえは、ゆっくりと四本の足を交互に使って歩きながら注意深くおまえのまわりや天井の鉄枠

を見、それが完全におまえをとらえていることを確かめた。足の下のコンクリートの床と背後の壁

を除いたあとの四面は、すべて鉄格子を使って閉ざされており、おまえにとって自由な空開は、縦

横高さともに二米の幅でしかなかった。恐らく奥の寝部屋に通じているのであろう板の仕切が、壁

の下方に見えたが、その頑丈でぶあつい感じの板は頭でおしあげようとしても待ち上らなかった。

多分、裏側の高い所で鍵でもかけているに違いない。……

 壁に近い方の隅に、低いコンクリートで囲まれた水槽があった。白く濁ったその水を覗いて見る

と、そこに人間の顔でない獣の顔が映っていた。(やれやれ、一体この幻覚はいつ醒めるのだろう

?)急に募ってくる憤懣の念を押えながらおまえはそう考えた。

 見れば、園全体は向うの森に落ちかかっている夕陽をうけて赤々と輝いていた。すぐ傍の茂みも、

向うの薔薇園も、食堂の建物も、そして豊かな水をたたえた池は、夕風のためにこまかなさざ波を

たてて動いていた。やがて、それらすべてのものの上に黒い影が覆いかぶさり、空の雲々が朱紫色

に凝結し西の空に集まる頃、園は閉じられるに違いない。そうしたら――もし、それまでにこの幻

夢が醒めなかったら――おまえの意識は、その時、帰らなければならない下宿の事や、今日で二日 

も休んだ会社の事を思ってかすかないらだちを感じていた。(しかしあれは一体何の音だろう?)

 カラカラと金物をひきずるような音が、どこからか聞えていた。その音は、断続的に、とぎれが

ちに、遠く、また急に近くおまえの耳を打つ。おまえは不思議な思いでその音を聞いていた。

(いったい何の音だろう?……)

 急に、前後の脈絡のない哀しみがおまえをしめつけた。……おまえは床の上にすわり、首を両足

の間に垂れて、低くまぎらわしい発音でうなり始めた。……と急ぎ足に重苦しい気分がおまえの周

囲から圧しくる。さまざまの音響、しめ殺されるような叫び声、ぴちゃぴちゃいう咀嚼音、駈けま

わる足音がおまえの耳に轟く。とたん、おまえは飛び上った。バケツをさげた青衣の人間が現れ、

バケツの中から明らかに肉塊と知れる物をとり出して、おまえの鼻先に投げだしたのだ。それは見

れば実に厭らしい血まみれの肉片であったが、おまえの鼻は、おまえの意に反して嬉しげにぴくつ

き口には唾液がたまる。事実は確かに、おまえの頭脳や眼が人間の精神に支配されているにもかか

わらず、おまえの胃や鼻は獣のものであることを語っているのだ。

 おまえはその肉片を睨みつけ、じりじりと後退しながらいった。

「違うぞ、これは、私は人間だぞ」

 しかし、おまえは同時にひやりとする。言葉が、おまえの発する言葉が、みんな単調でごろごろ

いう低い音になってしまうのだ。

 おまえは苦心の末、やっと後足だけで立ち上り、出来るだけ人間のように振舞おうとする。万が

一でも彼が気づいてくれればと考えて――しかし飼育人はにやにや笑いながら、おまえの曲芸を楽

しんでいるのだ。

 おまえは絶望しきって叫んだ。

 「ここから出してくれ! 私は人間なんだ!」

 おまえは鉄枠にぶっつかり、青衣の人間に吠えつこうとした。飼育人は嬉しげな笑い声を立てて

叫んだ。

 「食え! 畜生」

 立ち去る彼におまえは叫んだ。叫びながら鉄枠にぶっつかり、檻もそしておまえの獣のからだも

傷つけようとした。一撃ごとに、底知れぬ恐怖と気も狂うような寂寥を覚えながら。――(やはり

これは幻覚ではないのだ!)と悟る。

 ………ふと、もう動きもとれぬほどの疲れに打ちのめされ、心が次第に静まってくるのを覚える

と、すでにあたりはとっぷりと暮れていた。体のそこここがうずくような痛みをもって感じられた。

おまえば立ち上ると、うつろな心の奥でめまいのするような後悔と敗北の事実を味いながら、足を

ひきずりいつのまにか開いたままになっている仕切をくぐって寝わらの上に横になった。……

 ……おまえはあまり眠らなかったらしい。おまえが目覚めた時、月の蒼白い光が仕切の内側へさ

しこんでいて、おまえの横たわっている寝床をぼんやり明るくしていた。

 おまえはひどく空腹だった。表に打ち棄てられてある肉片の記憶が、現実にそよ風が運んでくる

生々しい匂いとともに強くおまえを刺戟した。

 おまえは立ち上ってくぐりを抜けると、月に照らされたその黒い塊をうかがった。食わなければ 

餓えるという意識、食いたいという気持が燃え上り、獣の行為に対する嫌悪感としばらく争い、そ 

して勝った。――おまえはそれに近づき、それを呑みこんだ。……

 ……不意に、耳元でけたたましくベルの音が鳴り渡った。すっかり熟睡していたのだ。さあ起き

ねばならない! 食事は? 咋夜の残りがあった筈だ。あれをコンロにかけ、水をすこしいれて温

める。そしておかずは? えい福神漬ですましてしまえ! ええと今日は、会社で専務の送別式が

あるんだった。そうだアメリカヘ行くんだっけ! 遅れないようにしなくっちや!

 おやおや、困ったぞ。ズボンの裾がこんなに汚れている。一体どこで? さあ、早速あの即席の

洗浄剤をつけて落さなきや……

 あれ! この毛のはえた棒のようなものは何だ? こりゃあ、一体何だ? それに、俺が寝そべ

っているこのベットは、中のはらわたが皆飛びだしてやがる。ふんふん、出がけに下宿のおばさん

に頼まなくちゃ………。

 とたん、おまえは脇腹に痛烈な打撃を食って悲鳴をあげて飛び起きた。同時に、声が頭の上から

降ってきた。

 「起きろ、いつまで寝ているんだ!」

 おまえは、気が狂ったように叫びながら戸口からとびだすと、檻の中をかけまわった。混乱と怒

り……おまえは力まかせに鉄柵にぶっつかり、うなり声をあげながらそれを噛み破ろうとする。

 突然、おまえは身震いとともに立ち止り、水槽の水をのぞきこむ。(夢ではなかったのだ!)お

まえの血は一瞬凍りつき、身をひろがえして奥の部屋へ走りこむ。

 太陽の明るい光線がおまえの敷わらの上で踊り、素晴らしい上天気と健康を告げていたにもかか

わらず、おまえは頭を上げる気持になれなかった。

(俺は獣だ)おまえはげっそりとなって呟く。(もう、どうしようもない……それに獣としてあの

汚らわしい肉を食ったんだ!)おまえは、うめき声をあげる。ついではっとした。

(そうだ! また今日も俺はそうするに違いない。ここにいる以上! これからずっと先も!)

(ずっと先! じゃあ、俺はこれから先も死ぬまでこの檻の中に閉じこめられているのか。来る日

来る日が何の変りもなく、希望さえもてずに、そして死ぬ時もけものの姿で死ななければならない

のか……そんな馬鹿な! そんな事がある筈はない。そんなことが! 俺は人間だ。少くとも許せ

ない……そうだ、きっと助かるにきまっている。これは幻覚に過ぎないんだ、悪い夢に過ぎないん

だ。いつまでも醒めぬ筈がない。俺はまた外へ出るのだ。外へ、再び人間として、二本の足で真直

ぐに立って歩き、青空をあおぎながら色々なことを考える。

 おまえの惑乱した頭の中を、その時田舎の家や、その周辺の美しい山々の姿、ところ構わず歩き

まわった懐かしい記憶、めぐり会った人々のさまざまな顔が、花火のようにたち現れ、夢幻的に燃

え上ったが、それも一瞬、突然虚空をかきまわす灰色の毛の生えた足が見え、現実というものの底 

知れぬ絶望性にハッと我にかえると、激しい憤りと恐怖で気も狂いそうになるのだった。     

 だが、いったいおまえとしたことがどうしたらいい。憮然として、汚らしくしめった寝わらの上

にだらしなく横たわり、世間の誰にも知られぬ自分と自分の嫌悪を噛みしめている以外に、おまえ

にとってどんな方策があるというのだ。(夢ならば早く醒めればいい)

 狭く頑丈な鉄の檻、変らない獣の姿、おまえは再び、太陽の日差しの下に自分の姿をさらし見た

くはない筈だ。閉じこめられた獣、行動の自由を失った獣、飼われてã

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2010-04-11

09:55

ブログトップ 記事一覧 記事を書く 管理 ログアウト ヘルプ こころ-夢の河辺で-<前の10日分

2010-04-01 山桜(100) 編集

 公園で桜が咲いている。近くで見る花弁は綺麗だが、離れると、桜は全体としてくすんだ灰色の布に見える。うす桃色の斑が広がって見えるのは遠くの山の桜だ。公園の桜の木の下に座り、春がすみが漂う景色を見ていると、なんだか頭もぼんやりしてくる。

 向こうの木の下で騒いでいた企業の団体が居なくなって、あたりが静かになった。もうそろそろ暮れ方だろうか。私はあくびをして立ち上がった。

 公園の出口に近い山桜の木の下に、母子の一組が座っていた。野点だろうか。赤い毛氈の上に火炉を置き、お湯を沸かしている。

「どうぞ、お寄りになりませんか」

 声をかけてきたのは母親の方らしい。娘の方も柔らかな笑顔で振り向いている。

「お茶ですか、でも」

「どうぞ遠慮なく、桜餅もありますよ」

 この人たちは見ず知らずの人間に声をかけて平気なのだろうか。

 お茶も正座も苦手だなと思いながらも、勧められるまま、私は、しぶしぶ毛氈の上に座った。

 娘が、火炉の上にかけた湯沸から、小さな椀にお湯をそそいで温め、ついで、茶葉を急須に入れ、ゆっくりと傾けてまわして椀に注ぐ。母親の方はその一連の所作をじっと見守っている。ひとつの儀式的な作法なのだろう。

 やっとお茶が差し出され、一口飲んでみる。

「うまい」思わず口に出た。

「そうでしょう、こうして飲むお茶は格別なのですよ」母親の方がいう。

桜餅もいかがですか」

「戴きます」

 甘い香りがする桜餅を食べながら、いつか、初めの緊張も遠慮の気持ちもほどけていった。あたりは暗くなっているが、外灯の明かりが私たち三人を照らしている。

「この近くにお住まいですか」と聞いてみた。

「ええ」と二人して笑う。なんだか懐かしい昔の知り合いにでも再会したような気分である。

「あの、私たちあなたをよく存知あげているのですよ」

「えっ、そうですか」

 私は近所に住む人を思い浮かべてみたが、思いつかない。ではこの公園で会っているのだろうか。

 しばらく雑談をして、席を立つことにした。公園の入り口で振り返ると、外灯の円い明かりの中に、ひとつは大きく、ひとつは小さい二本の山桜の木が寄り添って立っている。それは仲のいい親子のようである。



 

 

コメントを書く トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/kuromura/20100401 2010-03-15 グリフィン(99) 編集

 長い時間眠っていたような気がする。気がつくと、なにかあたりの様子がおかしい。おれは高い台座の上に座っていて、すぐ脇の階段を絶え間なく人が行き来している。後ろでは、ひっきりなしに、がらんがらんと大きな鈴の音がして、落ち着かない。

 いったいおれはどこにいるのだろうか。首をねじまげて後ろを見ると、日本の神社だ。何を祀っているのか知らないが、祭壇に向かって人間たちが拍手を打って、頭を下げている。

 なぜこんなことになったのだろうか。おれはこれまでのことを考えてみた。そもそもおれは、岩石のうちから、獅子の体に鷲の羽をもつグリフィンになる筈だった。それがどうしてこんな場所にいるのか。

 本来なら、西洋の寺院の守り神としてその入り口に座っていなければいけないのに、なぜ、こんな場所にいるのだろうか。はっとして階段の向こう側を見ると、犬に似たようなのが座っていて、ぼんやり口を開けて笑っている。

 あいつは獅子じゃないし、羽を持っていないし、グリフィンじゃない。とすると、対になっているおれも羽がなくて、あんな間の抜けた格好をしているのだろうかと考えていると、若い男女が近づいてきた。

「このコマイヌ、ちょっと変わってるね。ほら、ここのところの模様がさあ」

「へえ、なんだかまるで羽みたい。それに口が妙にとがってるよ」

などと云っている。とすると、やっぱり、おれには小さいながら羽があるのだろうか。鷲のくちばしを持っているのだろうか。それに、変なことをいってたけ、このこま犬とかなんとか。おれはこま犬なのか。

「おい、おれたちはこま犬かい」

対の相棒に聞いてみたが、相棒は笑ったまま答えない。愛想はいいが無口なやつだ。

 日が沈んで夜になった。夜になるとさすがに参拝客も来ない。相棒の狛犬は口を開けたまま眠っている。どこかで犬の遠吠えが聞こえる。日本の神社は深い森の中にある。ふくろうのほうほういう鳴き声が淋しい。

 おれは生まれ故郷のユーラシア大陸のことを考えていた。おれはインドで生まれ、エジプトギリシャで育ち、エルサレムの王に仕え、アレキサンダー大王の馬として活躍し、その後王家の紋章にもなった。それが、こんな東の果てで犬に成り下がるとは。

 おれには3500年の歴史がある。だが、この国の歴史はせいぜい2000年。それも、自分で文化を創ってきたわけではない。最初は中国の、明治維新以後は西洋の文化を新しがって利用しただけじゃないか。文字も思想も技術も結局はただの猿真似に過ぎない。もし、猿真似ではない文化があるとしたら、それは、江戸時代鎖国の200年だろうか。でも、もしその時代に狛犬の原型ができたとしたら、おれはいったい何だろう。 

 さっきから小雨が降っている。そろそろ、明け方だが、それにしても、この国のじめじめした湿度は性に合わない。また、今日も大勢の参拝客の目に晒されるのかと思いながら、足元に目をやると、台座は濡れて、早くも緑色の苔が這い上がってきているではないか。

 

 

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はっとり 2010/03/31 20:53

グリフィンだったことだけを覚えている魂が、狛犬に成り下がってしまいました。時世はグリフィン以外の肉体だったことも思い出せますように。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/kuromura/20100315 2010-02-10 岩神(98) 編集

 あちこちから小さな水音が聞こえる。集まってくる音は、澄んだちょろちょろいう音のほかに、遠い地鳴りのようなごんごんいう低い音もある。丸い天井に覆われた洞の中は、清れつな水に浸されているようだ。ここは外界から遮断された世界なので、外の音は一切聞こえない。

 昨日から、私は、この島の洞穴の中を調べている。山歩きの途中の、ふとした発見がきっかけだった。岩山の崖の巨岩の隙間から、生温かい空気が漏れ出しているのに気づき、重なった岩の間に溜まった土をかきだして中を覗くと、奥に続く入り口が見えた。

 私は懐中電灯を手に穴にもぐりこみ、岩伝いに降りていった。岩は階段のように下方に続いている。人の手が加わったような感じもあるし、行く手に巨岩がうねるように幾重にも横たわっているのは自然のままのようでもある。折り重なる岩は電灯の明かりに鈍く光り、その白い岩肌には緑色の斑点も見える。

 片方の手で岩の壁に触れながら降りていくと、壁がぬるぬるしているのに気がついた。水が浸みだしているのだ。見ると、その岩の表面には微細な文字がびっしりと刻まれている。古代の絵文字だろうか。ここに住んでいた住民が書き残したものだろうか。だとしたら、ここは先住民の住居の跡だろうか。

 その時、水の流れる音に気がついた。いつか湿った砂の上を私は歩いているのだった。水はすぐそばの岩の間を流れていた。細い水の流れは奥のほうから入り口ほうに続いている。 

 上から垂れ下がった大きな岩を潜ると、突然、広い空間に出た。円い天蓋になった岩の上方からひとすじの光が射していた。そして、目の前のひときわ広い岩の上に、光を受けた緑色の像が見えた。まだこの世界にはこんな所があったのだろうか。まだ見たことのない場所だった。私はその場に座り、ひと息ついて、リュックからハンマーを取り出した。

 像は、上下二つの塊からなる大きい雪だるまのような形をしていた。意図も無く生成された自然の造型物だったが、それにもかかわらず、何か意志をもって創られたように、目に当る部分には二つの青い石が輝き、像は強い怒りの表情を浮かべて私を見ていた。

ーおまえはだれだ。ここは人間が来る場所ではない。

 像が、思いがけず喋った。

ーおまえは綺麗な心を持っていない。邪悪な大人だ。帰れ。

 帰れというその声は洞の中に木霊した。

 水の音が急に高くなった。ごうごうと地鳴りのような響きが私を襲い、巨大な像は私の上にのしかからんばかりだった。私はその場に立ちすくみ、次の瞬間、恐ろしさに震えながら退き、出口のほうへ走っていた。

 あれは見たことのない恐ろしい岩神だった。岩神は腹を立てているのだ。想えば金になる石ー翡翠の原石を採取する私のような山師を心から憎んでいるのだろう。





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はっとり 2010/03/10 20:08

そんなに大きな翡翠は時価にしたらいくらになるだろうと、下世話なことを考えてみました。わたしも綺麗でないココロを持った大人ですね。

kuromura 2010/03/11 17:35

日本の翡翠新潟県糸魚川の周辺にあるそうですが、天然記念物に指定されていたりして、今は海岸を除いては採取はできないようです。以前行ったとき、駅近くの海岸でそれらしい藍色の石を拾いましたが、それはただの深層岩ということでした。貴重な宝石が簡単に見つかるはずがないですよね。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/kuromura/20100210 2010-01-30 山風(97) 編集

 その男に出会ったのは、山のほのぐらい木立の中。小さな流れに架かる橋の上。下から澄んだ水音が立ち上っていて、ぼくらは、橋の途中で互いに目を見交わした。男は赤い帽子を被っていて、どこか懐かしい。いつかどこかで、会ったような毛深い顔だつた。

 ーこんにちは。知り合いではないがぼくらは声を交わす。それは山での習慣。会う人は誰でも山の仲間だから、街ではしない挨拶も気軽に交す。

ーまだかなりありますか。

ーいやもうすぐですよ。

ーありがとう。

ーおつかれさん。

 すれ違った時、互いのリュックがぎいぎいきしんだ。

 静かなどんぐりの林を過ぎ、息せき切って急な岩場を登ると、やがて目指す山頂が見えた。振り返ると、下りて行く赤い帽子が若葉のあいだでちらちら揺れている。

 風が吹いてどんぐりの葉が揺れ、帽子が転がる。あわてて追いかける男。どこかで見たような赤い帽子だった。そういえば見たよな顔だった。あの男は‥‥‥子供の頃見たサーカスの熊に似ていた。

 サーカスの熊五郎は、赤い帽子をかぶり、玉の上に乗っていた。私は一番前の席で、彼を観ていたっけ。そのとき熊が云った。

ー面白いかい。そうだろうな。お前さんはまだ子供だもんな。こうして不安定な円い玉の上に乗っていると、世界が見えてくるんだよ。この世界は、見世物になる側と、それを見て楽しむ側の二種類に分かれる。俺たち動物はいつも見られる側だよな。人間でも有名タレントは見られる側だ。見られる側はいつも見る側の反応を気にしている。だって、自分が見られなくなったら、終わりだからな。俺たちはいつも見る側の気持ちを気にしながらびくびく生きているんだ。つくづく俺はこの世界がいやになったよ。

 ごうと風が吹き過ぎた。また、木の葉がざあっとどよめく。ああもう山頂。ずっと遠くまで見渡せて、いい風、いい気分。

 あの熊五郎は今どうしているだろうか。まだ、生きているだろうか。それともすでに死んで、檻と鞭から自由になったのだろうか。一瞬、目の奥で、よたよたとした足取りで玉によじのぼる熊五郎の姿がよみがえった。

 ああ山はいいーここには自由をそこなうものはない。またいつか会おうよな、熊五郎。

DibeshDibesh2012/12/04 17:00It's posts like this that make surfing so much plesaure

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JohnetteJohnette2016/04/30 10:58I’d say quite impressive too, considering it was on at an ungodly hour for half the country when <a href="http://ayswcow.com">yor8;&217#ue</a> not going to get a lot of people stumbling on it randomly. Though I bet all 50 people that planned on watching Bassmasters were pissed

AlexAlex2016/05/04 19:18My hat is off to your astute command over this topvi-braco!

2010-01-20

11:02

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こころ-夢の河辺で-<前の10日分

2010-01-03 金色の蛇(96) 編集


 金色の蛇が低い木に巻きついている。このマングローブの森には背の低いヒルギ科の植物が広がっていて、干潮時の湿った地面には蟹やトビハゼが這っているが、蛇がいるのは珍しい。それも黄金色の蛇だ。なにかの餌を獲りに来て満ち潮で帰れなくなったのだろうか。それにしても、ここらにはこんな蛇が住んでいるのだろうか。

 蛇はオヒルギの木のまたのところに居座ってちょろちょろ赤い舌を出している。 いつか家の庭でこれに似た蛇を見たことがある。小さくて綺麗な色をした蛇だったが、私を見ると体を縮め、口をかっと開いて威嚇してきた。蝮かと思い、牛乳の瓶に押し込めて蛇屋のかみさんに見せたところ、これは花蛇ですよ、無害ですと云われた。

 あの蛇は川に流したが、その蛇がこんな遠くまで来るはずがない。しかし、蛇という生き物はどこか神秘的で、北欧神話ミッドガルドの蛇や、日本神話のヤマタノオロチなど悪の権化として登場するが、一方で、正月の蛇の夢は吉兆として歓迎される。

 ヒルギの森に雨が降ってきた。ヒルギの胎生種子がぱらぱら落ち、柔らかい地面のささって、またヒルギになる。その永遠のくりかえしだ。

 無限大の記号は横になった8の字だが、これは尻尾をくわえた古代エジプトウロボロスの蛇からきており、これはりぼんを一回ひねって先をくっつけた後代のメビウスの輪に関係している。

 メビウスの輪は表と裏がつながっていて、表と裏は別という常識に冷や水を浴びせる一種の形象表現だが、同じようにクラインの壷というのがあって、これは壷の先を壷自体に押し込み外に開口させたもので、内側がいつの間にか外側になる。数学者はいろいろ面白いものを考えだすものだ。

 私たちがすんでいるこの宇宙の直径は150億光年ということだが、実際には光が届く範囲を見ているだけで、その外側はどうなっているのか分からない。ひょっとしたら、クラインの壷のように曲がっていて、その先の宇宙がすぐ近くに開いているのかもしれない。

 雨が止んで、沖縄の空に虹が懸かった。その七色の虹は美しく、空に大きく伸び上がった大きな蛇のようにも見える。



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sonoda 2010/01/05 11:07

明けましておめでとうございます。ことしもショートストーリー楽しみにしています。ある美術評論家が「精子は蛇の形をしている」と言っていましたが、蛇は死と再生の象徴かもしれませんね。

kuromura 2010/01/13 12:12

明けましておめでとうございます。朝起きたら沢山の雪が畑や樹の枝に積もっていて、綺麗でした。良い年でありますように。

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2009-10-19 祭り(95) 編集

 最近、目が悪くなったようだ。昼間はいいけど、夜になるとどうも駄目だ。夜目遠目というけれど、向こうから来る人が男か女かも分からない。

 外灯が点いていない鄙びた田舎道を散歩するのは、私の楽しみの一つだ。うす闇にぼんやり浮かんだ白い道を歩いて行くと、何か奇妙な安堵感に包まれる。

 その夜も、例の散歩道を歩いている時だった。いつもは雑草が生い茂っている道脇に点々と光るものに気がついた。月のない夜なのに、月光で反射しているわけではない。何だろうと目を近づけると、姫みぞそばに似た蔦草がつながって生え、その赤い玉が豆電球のようにちかちか光っているのだ。赤い光の玉はずっと行く手の道脇に連なっている。

 どこからか、どーんという太鼓の音も聞こえてくる。お祭りでもあっているのだろうか。こころなしか、行く手の空が赤く燃えているようだ。太鼓の音とともに笛や鐘や囃子のざわめきも聞こえてくる。

 道の行く手にか黒い神社の森が見え、社の前でちらちら動いている人の姿が見える。えいさあ、という囃子もはっきり聞こえる。竹の筒を振り上げて踊る子供たちが見える。大人はそれぞれ鐘を鳴らし、笛を吹きながら、列をつくって社の周りを回っている。

 大人も子供もみな、女柄の浴衣を着ているが、頭の左右に細く綺麗な羽飾りを付けていて、体を動かすにつれ、その羽飾りがゆらゆら揺れるのが面白い。

 えいさあ、えいさあ、よーい、よい。初めてだった。社があるのは知っていたが、こんな面白いお祭りを見たのは初めてだった。思わず拍手をした。

 男の一人がこっちを見た。すると驚いたように、「人間だ。人間だ」という囁き声が波のように伝わり、みんなが振り返ってこっちを見詰める。

 あたりがしんとなり、どんと太鼓が打ち鳴らされ、踊り手はみなばらばらと草陰に隠れた。鐘も笛も社の後ろに隠れていなくなった。

 いったいどうしたんだ。なぜ隠れるんだと叫んだ。

 社とその森は沈黙に包まれた。

 やがて、踊り手たちが隠れた草陰から、ためらいがちに、虫の声が聞こえてきた。最初は、じーい、じい、ころ、ころと。やがて、すい、すいっちょ、りーん、りーんと、次第にその澄んだ鳴き声が高まっていく。



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kuromura 2009/10/30 18:01

文章に関係のないコメントもどうぞ。

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2009-09-27 マイク(94) 編集

 私は口下手だ。沢山の人が集まったところで、何かを話そうとすると、頭の中で色んな観念が勝手に暴れだし、いっぺんに口の外に出ようとする。聞いている人は、何をわけが分からないことを言ってるのだろうと思うに違いない。その場の状況を見ながら、あるいは、その場の雰囲気により、順序だてて話すことができないのだ。

 そんな私が講演を頼まれた。困った。困った。どうしよう。

 講演の日、私が会場に着くと、入り口に立っていた知らないおばあさんが言った。「お待ちしてました、どうぞ」。がにまたで歩くおばあさんの後から、建物の中に入って行くと、突然、おばあさんが振り向いて、私の口に飴玉のようなものを押し込んだ。「気分が落ち着く薬だよ」。

 エレベーターには乗らず、おばあさんの後から階段を上っていった。階段は上るにつれだんだん狭くなる。おばあさんの尻が雄大に揺れる。最後の五階に着くときは、人一人がやっと通れる幅しかなかった。天井も低く、まるで下水管の中を潜り抜けていくようだった。思わず口に出た。「どうしてこんなところを行かなきゃならんのか、まるでおれは芋虫だよ」。「ゆっくり、ゆっくりね」。おばあさんの顔がにたりと笑って消えた。とたんに広い場所に出た。

「みなさん、見えられました」美人の司会者が声を張り上げた。

 私は話し始めた。どうやらどもりもせずに、私は話していた。理路整然と。音声朗々と。かねがねこう言いたいと思っていたことを、そのままはっきりと、大勢の聴衆の前で口にしていた。不思議なことだった。

 このような名演説がどうしてこの頭の中に入っていたのだろうか。また、うるさい野次にもめげず、一つ一つの論点を明確に指摘して、ついには全会場を納得させた、押しの強さと政治力はどうだ。まるでこの私が他人の夢を見ていたような案配ではないか。そのときやっと、私は、ここに来るまでの狭い階段のことを思い出した。入り口で会ったおばあさんのことを思った。そういえば、あのおばあさん何処に行ったんだろう。

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2009-05-21 詩を創る難しさ(93) 編集

 私は二十歳の頃から詩に携わり、長年、詩や散文詩のことを考えてきた。詩を書く、あるいは詩を鑑賞することを気持の中心に据えながら、あいまいで不安定な自分の精神生活を律してきたつもりだが、いまだにあるべき詩の形がはっきりと見えないし、詩というものが、この世の中でどんな役割を担っているかの見識すら持っているとは言えない。

 たとえば、優れた詩から与えられる、あの無上といっていいほどの精神の高揚感はどこから来るのか。さらに、作品を推敲する自分が、交互に経験する熱くて冷たい構築作業。創造の矛盾に満ちた落着かない時間などなど‥‥。詩の魅力に取りつかれた者として、これらの悩ましい課題はいつも頭を離れない。

 自明の事だが、詩は、書き手と読み手がいて初めて詩として成立する。書き手は伝えたい内容を詩の形で提示し、読み手は、書かれた章句を目で辿りながら、脳内で結ぶイメージを追って、物語りを再生していく。だから、書く側は読む側の心の動きをあらかじめ想定しながら、詩の章句の一字一句を書きつらねていかねばならない。

 若い頃は、とにかく自分の本を出したい思いだけで、まだ未熟な詩を出版してしまう人もいるが、自己満足に終ることを覚悟すべきだ。まず、身近に読んでくれる人がいるかどうかを考えなくてはいけない。詩は誰かに読まれなければ存在することもないし、誰にも読まれない詩など意味がない。

 よい詩は、書かれた内容(意味)と言葉のリズムがお互いに補完しつつ、相乗効果により、強い感動を引き起こす。日常の言葉を使いながらも、読者の共感を誘う。

 詩は誰にも分かる易しい言葉でなければと思う。作者自身にも分からないような詩は問題外だ。どんな平易な言葉を使っても、よい詩は人間や人生への深い洞察によって、読む者に喜びと生きる力を与えるものだ。

 よい詩には、必ずその中心にしっかりした思想なり情念がある。主題がない詩。詩らしさを装った詩はつまらない。真に書くべき内容がない詩、技術だけで書いた詩はつまらない。

 おうおうにして、若い詩人は自分の浅い感情や思想をそのまま詩の形にして提出する。それが自然で当然だというように。だが、私はそれはまだ詩ではないと思う。

 詩を書く上で、自分は出発点に過ぎない。自分が他者からどう見られているか。自分が他者とどう関わっているか。自分とは何か。そのような思考回路がなければ、書かれた詩はまだ、詩とは言えないと思う。

 さらにいうなら、自分がいる狭い場所にこだわる限り、詩は自由な広い空間を見つけられないだろう。他者を含めた自分。普遍的な自己。もしそのような自分を見ることができるなら、もしそのような開かれた自分であるならば、詩は、自ずと向うから訪れてくれるのではないかと思う。

 人間は、植物のように同じ根で繋がっているのではないし、蜂や蟻のような無意識の共同体の一員でもない。ひとりひとりが独自な思考回路を持って生きている存在だ。

 詩が共感を得るためには、その垣根を乗り越えなければならない。そうした意味では、詩は政治家の演説に似ていると思う。詩人の詩が人々の気持に届くかどうかは、その声が普遍性と永遠性を持つことができるかどうかに係っている。   



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kuromura 2009/07/15 11:25

現在、パソコンが故障中。復旧次第再開します。

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2009-05-13 仏の山(92) 編集

 その岩山の崖下には、ぽかんと開いた洞窟があり、中から涼しい風が吹いてくる。大きな木柱の案内板がそばに立っていて、大きく墨書で「仏山」と書いてある。

 炎暑の外から穴の中に入ると、洞窟の中はひんやりとして、天井から吊るされた僅かな灯に、狭い通路が浮び上がっている。

 立って歩くのがやっとな凸凹道。左右の壁のところどころに彫り窪めた棚があり、蝋燭が点っている。灯明のうしろには羅漢、山王などが安置されて、しきりに線香の臭いがする。歩くうち、徐々に下り坂になる道を降りて行くと、急に、開けた場所に出て、あたりが青い照明に浮び上がる。一帯に湯気がたちこめて、額に三角の布を当てた亡者たちが、大釜のまわりで哀願するように手を差し伸べ、死んだようにぐったりとした亡者の傍には大きな鬼が立っている。みな蝋人形だ。

 ここは、多分地獄を再現した場所だろう。とすれば、極楽もあるはずだ。

 少しずつ登りになる坂道を行くと、やがて黄燈色の照明が広がり、こころなし沈香の匂いが漂ってくる。前方の高みに黒い影となって仏の姿が浮び上がった。奈良大仏のような座り姿。ただ全身黄金色のぴかぴか仏だ。

 右手を前にかざし、左手の掌を上に向けて膝に載せているが、その手の上には賽銭箱が乗っている。

 箱に百円硬貨を投げ入れると、大仏の目がきらっと光った。機械仕掛けになっているのだろうか。こんどは五百円を入れてみる。仏の目が動いてこちらを見た。千円札を入れてみる。すると、仏の首がぐるりとこちらを向いて、にたっと笑う。

 これは面白い。では一万円ではどうだろうか。しかし、なにかもったいないような気がする。手帳を破って一万円と書き、中に入れた。とたんに警報装置が鳴り出した。 



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2009-04-23 四角な部屋(91) 編集

 街の地面は四角に区切られ、その場所から生えた長方形の建物が、地平線まで連なって青い空を切り取っている。

 いくつもの淡い影の階段‥‥無機質な造型物となってそびえたつオフィスビルやマンション、商業ビル。その四角な壁面には、一様に四角なガラスが無数にはめ込まれ、朝日にきらきら輝き、それらのひとつひとつが見知らぬ昆虫の複眼になってあたりの景色をじろじろ眺めだす。

 この町のいったいどこに、人は住んでいるのだろうか。はて、あれが人間が住む家なのか。まるで断崖にこびり着いてでもいるような具合だ。

 ビルの黒い影に隠れた小さい四角な家。四角い窓、四角な郵便受け、四角な階段、四角な入口、四角な表札‥‥。

 呼び鈴を押して、窓から覗き込む。ワタシたち遠い宇宙から来た者ですが、救助信号を出しているのはこちらですか。

 水色の絵具が溶けている空のかなたから、降りてきた白い霧は、ゆっくりと窓からすべりこんで、部屋を満たし、小さい異星人の影が部屋の隅に現れる。

 テレビと机。四角ずくめの部屋。窓枠に切り取られた四角な景色。だが、ひとつ円いコップが四角な机の上に‥‥。

 コップの円い湖の真ん中で、男が懸命に泳いでいる。表面に浮いたゴミのように、苦しげにもがきながら。 

 四角い顔の女が匙で掻き回すレモンソーダ。かすかに見える氷の青い稜角。

 突然の渦に男は呑まれ、ついで宙に吊るされ、気がつくと、びしょぬれのまま紙に張り付いている。これって虫じゃない。 

 ごみのような小さな男を見ている巨大な目二つ。息詰まる四角な部屋。宇宙人なんてごめんだわ。ぴしゃりと窓が閉じられた。 

 遠くで呼び鈴が鳴っている。繰り返しためらうように呼び鈴が鳴っている。



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おおつき 2009/04/25 00:21

渦巻く水。溺れる男。救われぬ男。幾重にも重なる外の世界。…特に深く考えたわけではありませんが、「水」はコワイですね。

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2009-03-31 キャンバス(90) 編集

 妻が、庭に水を撒くときれいな虹が架かった。子供が歓声をあげて庭を駈け回る。犬がけたたましく吠えて後を追う。

「おいおい、濡れちゃうぞ」

「暑いから平気だもん」

 洗濯物が干してあるので、そこらじゅう清潔ないい匂いがする。

 私はキャンバスに向って絵を描いている。

「何を描いているの」

 傍に寄って来た子供はまだはあはあ云いながら、その目はどこか遠くを見ている。

「山だよ」

 ごみごみした都会を離れて、私たちは二年ほど、山が見える高原で暮らしている。ここは白樺の林の中。すぐ傍に小さな湖がある。 ここで私は、ずっと山の景色ばかりを描いている。 目に映るのは、うすい色合いの錐形が連なる山々。白い雲が円く取り巻いて、あそこはまるで神の国のよう‥‥。 

 私はふと、キャンバスから目を離し、絵筆を置いて、あたりを見回した。なんだかへんに静かだ。

 洗濯物を干したまま、妻はどこに行ったのだろう。傍にいた子供や、あんなに吠えていた犬もどこに行ったのか‥‥。

 どこか遠くでピアノの音。白い蝶が一羽迷いこんできてキャンバスに止まった。

 しかし、妻はどこに行ったのだろう。子供は、犬は‥‥。 

 家族の姿がないキャンバス、青い山の向こうはやはり青い空。水色の絵具が溶けていく空のかなた。かすかに氷の稜角が見えるが、それは山の冷たい氷壁

 突然思った。

(私は何のために生きてきたのだろう)

 これまで私は山ばかりを描いていた。ここは、私の終の住処なのに、ついさっきまでいた家族の姿はなく、一人ぽっちだ。私がここに住んでいるのは何のためだろう。

「ぼくたちも描いてよ」

 その時、遠くから子供の声がした。温かさが戻ってきた。



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