こころー夢の河辺でー

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2010-11-24

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こころ-夢の河辺で-

<前の10日分

2010-10-29 獣の眼(下) 編集

 いったい、どの位の月日が経ったであろうか。おまえは時間の観念をすっかりなくしてしまって

いたので、全く見当をつけることが出来なかったが……。

 ――その日は、朝から妙に暑苦しく、おまえは檻の奥の日陰になったところで、冷えびえする壁

に体を寄せ、舌をだらりと垂れたまま、いかにも暑そうな埃っぽい前の道を眺めていた。

 一つの影が道のずっと先、おまえの檻の右手に現れ、徐々に近づいてきていた。不意にぽっかり

と、その映像はおまえの眼の中に落ちこみ、おまえは一種の懸念をもってその影を見詰めた。それ 

は、恐らく何でもなかったかも知れない。それは普通の見物客に過ぎなかったのかも……しかしそ 

の時、かすかに遠い日の記憶が頭をもたげていた。不思議に心が惹きつけられる或るまばゆい記憶、

それに、あの男がどう関係したか。

 男がおまえの檻の前にさしかかった時、突然、おまえは呻き声をあげた。頭の中の激しい痛みに

よろけながら鉄柵に近づき、おまえを見守るその男をじっと見詰めた。奇妙な感激が、おまえを波

のようにゆすり、おまえはそれが誰であるかを思いだそうとしていた。

 眼の前に、黒い樹木が殺到し、おまえの上に打ち倒れた。

「なんちゅうこった!」

 頭の上で太い声が響いた。

「完全に失敗だ! こんなことになろうとは思わなかった」

「けれど園長」

 別の声がからんだ。

「奴さん、なかなかの努力家ですよ。それだけは認めてやらなくちゃ」

 聞き覚えのある声だった。頭を上げて見ると、がらんとしたうす暗い部屋の正面で、飼育人が椅

子に腰をかけている人物に向って、手を振っていた。たった一つの照明を背にした人物の椅子がぎ

いぎいきしんだ。

「馬鹿なことを云うな。わしは絶対に情状酌量はせんぞ! 肝心なことは、今この人間ハイエナを

どうするかということなんだ」

 飼育人がせきばらいした。

 「ハイエナ人間ですよ」

 「うるさい! こまかいことをつべこべ云うな。要するにだ。こやつはわしが思うにはだ。その反

社会的な性格により、実に全く、自己の責任においてハイエナになったのだ」

 「個性の展開ですな」

 「しかし、ここに困ったことが起きた。このハイエナは全くハイエナらしくないということなん

だ。しょっちゅう気絶したり、妙な風に叫んだり、食物に寄りつかなかったり、どうもいったいにに故障

が多すぎる。もしも動物学会から調査に来たりしてその間の事情が明るみに出るようなことになっ

ては、当園の名誉にも係ることだし、ひいてはわしの首も安泰というわけにはいかないというわけ

だ」

「なるほど」

「ふむ、おまえは妙な時に合槌をうつな。だがよし、わしはもう決意したのだ。こういつまでも放

っておけない。すぐに処置しよう」

「しめる……のですか?」

 飼育人はのどに手をあてて、後ろに飛びさがった。

「わしの云うことが分らんのか。逆だ、解放してやるんだ」

「でも、まさか」

「そうだ、もどしてやるんだ。ホモ・サピエンスの直接の子孫にな。だが、精神も元どおりとい

うわけにはいかん。記憶が残っていたら、当園の名誉を裏ぎるかも知れないからな。さあて、これ

でまあうまくいったら、これからはぼつぼつ私の方の仕事も手伝ってもらうことにしよう。これも、

今までの君の働きを見こんでのことだが」

「ちょっと待って下さい。手違いが……」

「おい、まだ何か云っているのか。こまかいのが君の欠点だが、もういい、もういい、よしと、これで万事快調さ!」

 と、急に眼の前で黒い網目がひろがった。みるみる網目は近ずくと、おまえのまわりにぼろっ布の

ようにまといついた。息苦しい感じが吐き気をともなっておまえを襲い、おまえは急にその場から

逃げ出したい思いで一杯になった。

 

 ……おまえは相手から眼をそらし、門の方へ向っで歩きだした。

 門から出ると、おまえは最初から定められた行動で、駅へ向った。私設電車に乗り、或る駅へ着

いてそこで乗り換え、こんどは国電に乗って、おまえにはなじみ深いと思われる一つの駅で降りた。

改札口を出、十分ほど歩き、家に着いた。

 六畳へ通ると、友子が現われ、おまえの服を脱がせて呉れた。次の間で、赤ん坊のぎゃあぎゃあ

泣く声が問えた。風呂がわいているというので、すぐに一風呂浴び、あがって飯を食った。飯を食

っていると、友子が何か言い、おまえがそれに答えた。おまえはひどく愉快な気分だった。新聞を

読み、テレビを見た。それからしばらく、友子と家計のことで議論した。友子が急に笑いながら、

おまえに飛びついてきた。……

 翌日は、目覚ましの音で眼を覚ました。赤ん坊は相変らず泣いている。おまえは、友子の仕度し

た朝飯を食い、小さなショルダーバッグを持って家を出た。会社に着くと、タイムレコーダーを押

し、しばらく同僚と雑談した。それから車へ乗りこむと街へ出ていった。相変らずだった。おまえ

の車は、恐ろしいスピードで街を飛ばし、客を目的地へ送り届けた。その日は客がついて、稼ぎ

はノルマをざっと二千円オーバーしていた。会社に帰ると十時を少しまわっでいた。係から伝票を

もらい家へ帰った。友子は赤ん坊を抱いたまま眠っていた。おまえはは煙草を一服すると、傍に敷

いてある布団にもぐりこんだ。

 翌日、会社へ行くと、労組の連中が来ていて、おまえに、やあといった。おまえも、やあと答え

たが、それ以上話さなかった。もっとも向うは話しかけようとしていたようだが、おまえはまっす

ぐ車庫の方へ歩いていった。車庫の横手の壁にビラが張られ、それには、「下車勤制度反対」と書

かれてある。それを見ると、さっき労組の連中の顔を見た時のように、何故か、後ろめたい思いと

同時に、頭の奥の方が痛みうずくような気がしたが、車に乗ってからは、そんなことはすぐに忘れ

てしまった。都心に出ると、おまえは車を徐行させながら左右へ眼をそそぎ、合図をしている人間

を見つけるや、それをひったくるように乗せ、目的地へ突っ走った。

 いつからか、或る意志がおまえを支配し、お前を勁かしていた。おまえは絶えず歩道の方へ眼を

配りながら、合図している人間を見つけようとした。そして、本能的にそれに向って近寄っていく

と、できるだけ手早く事を運んだ。

 おまえは時たま、駐車禁止の立礼のない路傍に車を止め、また待ち時間などを利用して、紙はさみに挟んだペラペラした表に、走行距離と料金を克明に書きいれた。そして、その料金の合計額

が或る一定の額に達するまでは決して一息いれるようなことはしなかった。時に、おまえは十二時

過ぎの一杯飲屋に立ち寄り、酒で活力を養うこともあった。が、それもごくまれで、よほど疲れた

日でなければやらなかった。

 また時に、おまえは公園などに車を乗り入れ、そのまま眠りこむこともあった。それは時間の節

約にもなったが、何よりも仕事の上での便益にほかならなかった。

 おまえは殆んど何も考えなかった。ただ、何かを考えるように強制される時はあったが、その時

は必ず、頭の奥の方に錐でもむような痛みを感じ、考えをさし止めてしまうのだった。会社の運転

手で、ノルマや下車勤制度のことをぶつぶつこぼしている者はいたし、実際におまえに向って話し

かけてくる組合員もあったが、おまえはなるべくそうした連中とは離れ、顔が合ってもあたりさわ

りのない話でごまかすことにしていた。おまえにとってはっきりしていることは唯一つ、働くが上

に働かねばならないという意識だった。おまえはまるで偏執狂のようにその意識にとらわれていた

が、それが辛いなどと感じたことは一度もなかった。それどころか、かえって不思議な昂揚状態に

心を支えられ、常に楽しくさえあったのだ。

 ある日の夜、おまえは郊外へ長路離の客を送りとどけてから、また都心にとって返し、折からの雨で右往左往する車の混雑の中で客を求め、ゆっくり流していた。

 フロントグラスにすべり落ちる雨滴は、ネオンの光を映して七色に染まり、見通しは悪かったが、

雨の日こそおまえの書き入れ時なので、左右への注意は怠らなかった。だが、その夜は不思議と客

がなかった。約一時間ほど、同じ盛り場を廻って見たが、かれこれ八時にもなるし、ノルマにはま

だ三分の一にも満たないしで、おまえはいくらかいらいらしていたが、その時ふと思い直して、

まだ行ったことのないS駅の附近へ行くことを思いついた。そこなら附近にちょっとした住宅街も

あるし、雨に降りこめられた通勤者が大勢いるような気がしたのだ。おまえは、そこからほど遠く

ないS駅まで一直線にぶっとばした。案のじょう、S駅の出入口は雨に降りこめられた通勤者でご

ったがえしていた。迎えの傘を待っている者、ただぼんやりと激しい降りに見とれている者、おま

えの車はあっちからもこっちからも引っ張り凧、行っては返し、返っては行き、またたく問にノル

マのあらかたを稼いでしまった。

 もう、その時は十一時にもなっていたろうか、おまえはもう人影のほとんどないそのS駅の横手

へ車を置き、もう一電車待って見るつもりで、その間附近の公衆トイレで小用をたした後、あらか

た小降りになった雨の中を駈け戻って来た。すると、車の後部扉が開いているのだ。

おやと思い、のぞきこんでみると、一人の会社員風の若い男が、かなりひどく酔っぱらっている様

子で、後部座席によりかかり首を垂れ、眼を閉じているのだった。

「ダンナ、どちらまでですか」

 おまえは、その若い男の肩へ手をかけてゆすぶった。

「ああ……」

 その男は大儀そうにだらしなくゆるんだ顔をあげて云った。

「ХХ町までやって呉れ」

 おまえは、おや、と思った。その若い男の顔がなんとなくおまえを惹きつけたのだ――どこかで

会った顔だ――と思った。

 おまえは運転台に乗り、わざとゆっくり車を動かしながら、注意深くバックミラーに映る後ろ

の顔を眺めた。……白い、むしろ青ざめた顔、しかしそれも酔いのせいかも知れない。陰うつにひ

そめた濃い眉、こけた頬の線、意外に赤い女のような唇、いったい誰だったろう、この男は。

「君」

 突然、男が声をかけてきた。

「え!なにか」

 おまえはどきりとして答えた。うしろの男が、おまえの視線に気づいたのだろうか。しかしそれ

は違っていた。続いての男の声は、もっと唐突な響きだった。

「……君はどうせ、僕にとっては関係のない人だ」

 弱々しい、自からを嘲けるような口調が、かすかな笑いにまぎれて続いた。

「こんなことを聞くのは変なことだが、君は、人の考えがその人から離れて、他の人間の中へ飛

びこむってことがあり得ると思うかい

 (酔っているんだな)と、おまえは考え、笑いながら聞き返した。

「え! なんですって」

「いや、突然変な話で驚いたろうが、これは例え話じゃない。またよくいう人が変るっていうこと

とも違うんだ。僕のいうのはね。つまりここに二人の人間がいるとして、その二人の人間の内容が

互いにすっかり入れ替わってしまうことをいっているんだ」

「考えられませんね、そんな馬鹿なこと……」

 おまえは、話の意味する中味にぞっとしながら答えた。(悪酔いしてるんだな)

 しばらく沈黙が続いた。

「そうだろうか」

 男はやっと云った。突き放したような口調だった。鏡の中の男は、窓の外へぼんやりと視線を投

げていた。商店街の黒い軒並が後に飛び、車は音もなく濡れた舗道をすべっていた。男はふと、そ

のままの姿勢でもの柔らかな調子でいった。

「じゃあ、君は、人間の内容というものは、絶対に動かすことの出来ないものだと考えているの

だね。それが人間の肉体の殻に閉じこもって、そこから一歩も外へ出ないというんだね」

「勿論そうでしょうとも」

 男の柔らかい溜息が聞えた。鏡の中で、男はうしろに寄りかかり、眼を閉じていた。

「どうしたんてす、そんなうす気味悪い話をしてあんまり酒を飲みすぎたんじゃないですか」

 おまえは強いて笑いを浮べ、わざと声高に云った。

 鏡の中の男は、にっこり笑って眼をあけた。

「いや、そうかも知れない……だけど喋ったお陰で気が晴れたよ……この所、眠れないでね。

そんなことばかり考えて……でも、君がそういって呉れたお陰で、何か安心みたいなものができた

よ」

「ふっ、笑わせちゃあいけませんよ。そんな妄想にとりつかれたんじゃあ、生きていけませんぜ」

 おまえは笑いだしながら云った。車はいつか、ХХ町にさしかかっていた。

「ダンナ、ここら辺ですね」

「ああここだ」

 男は外を見て云った。

「そこの路へ曲ってくれ………よし、停めてくれ」

 雨は止んでいた。ぽつんと一つだけ、青い街燈がともっていて、あたりの高い軒並を浮び上らせ

ていた。

 お釣りはいいよ」

「へえ、こりゃすみませんな」

 おまえはうしろのドアを閉めると、そのまま何気なく、若い男が登っていく石段のある家を見や

った。

「おや、ここは」

 おまえは、思わず呟いた。

 ドアを開いて外へ出ると、しげしげとその家や、あたりの軒並に眼をこらした。道路、樹木、電

柱、なにか懐かしい匂いがするその全体。……すぐに、おまえはくっくっと声を忍ばせて笑いだし

た。

「今夜の俺は、どうもおかしい」

 ドアをパタンと閉じて走り出した。車を走らせながらも、おまえは頭を振った。

 会社へ着くと伝票をもらい、そのまま家へ帰った。十二時だった。友子は起きていた。煮物が火

鉢の上で湯気を立てていた。友子の笑顔と、赤ん坊の安らかな寝顔と、温かい食事が、おまえに今 

日のことを忘れさせ、やがて、おまえをやわらかく平和な眠りに包みこんだ。

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おおつき 2010/11/15 22:01

どうして変なところで改行をしているのかと思っていましたら、このページを開いてみて納得しました。

画面によって文字数が違うのですね。

縦書きにコピーしてから、面白く拝見いたしました。

これは小説のジャンルに入るのでしょうか?

一番初めに動物園を去った男の行方が気になります。

kuromura 2010/11/17 10:58

獣の眼は以前同人誌「城」に発表した小説です。

小短編が100になったので、とりあえず旧作で穴埋めし、あとのことを考えたいと思います。m.tsutsumi

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2010-10-22 獣の眼(中) 編集

 ――生きるということがどのように行われるか――もし誰かがおまえにそう尋ねて見る気を起し

たとしたら、おまえはその時こそきっぱりと答えるだろう。そうだ、生きるということは順応して

いくことなんだ。

 もちろん、おまえがこのようにきっぱりと自分の考えを云えるようになるまでは、おまえ自身の

心の中で、さまざまの懊悩の発展を経験しているのだ。檻に入った当時のあのヒステリックな感

情が次第におさまり、おまえが自分の置かれている状況をやや冷静に眺めることができるようにな

りかけた頃、おまえはいくつかの脱出の計画をたてた。しかし結局、そのどれをも手をつけないま

ま放棄してしまったのだ。けだし、おまえはそのような冒険を冒すにはあまりにも自分をも偶然を

も信頼できなかったのだ。それにもっとも肝心な問題点は、おまえの体が現実に獣の体であるとい

うことではないか。すべては、それが解決すれば後にもう何の努力も要しないことは自明のことな

のだ。

奇妙なものだ。希望とは! おまえはまだそれによって生きていた。

 朝、太陽が東の空に輝き、おまえの汚わいにむれた寝床を照らす時、おまえは夢から目覚め、

確かな眼でおまえとおまえのぐるりを見まわす。おまえは獣、そしてもはや逃れるすべもない獣、

おまえは午前の時間を、二米四方の運動場に出て、さわやかな空気を吸いながら歩き、彼方のか黒

い森や、池のほとりの美しいたたずまいに眼を向ける。午後の時間は、おまえが見せ物になる時間

だ。おまえは最初それに耐えられないと思ったが、それは馬鹿な考えだった。おまえはそれに耐え

られるどころか、時にはおまえ自身の敏捷な体の造りと、どう猛な性質を示してやるために、大勢

の見物人の前で、高く跳ね上ったり低くうなりながら鉄柵にわざとぶっつかったりしたものだ。勿

論、気が向かなければ眠ったふりをして、ちらりちらり見物人達の様子を眺めていたらいいのだ。

それも結構いい閑つぶしになるものだ。それで時にひどく感動することもある。驚かされることも

ある。

 いつか、見物人の中におまえの学校特代の友人の顔を認めた時だ。その時は思わず飛び上って、

奥の部屋へ駈けこもうとしたほどだった。しかし、それもほんの短かい間、すぐに、おまえを分か

る事など、それがどんなに以前のおまえを知っているとしても、誰にもできる筈はないのだと思い

返して苦笑したのだった。

 おまえは、わざと彼の前にすわってその友人の顔を真正面からじろじろ観察してやった。恐らく

彼は臆病なのだろう。すぐに眼をぱちぱちさせはじめ、やがて、申訳なさそうにひきさがったが、

おまえはその後ろ姿に向ってあらんかぎりの悪口雑言を費やしたものだ。

 おまえは、おまえを見ている人間を逆に見て愉快でならなかった。彼等は、自分達が見ているも

のが単なる獣以外のものであるとは思ってもみないのだ。それは、どうにも我慢できない苦痛と快

楽の練り合せだ。子供連れで、子供にもまさるような立派な阿呆面で口をぽかんと開き、おまえの 

前に立っている人間達。おまえは、わざと見物人の大勢いる前でびっこをひいて歩いて見せる。と

たん彼等は叫ぶ。あ! ほら、びっこをひいている。足を痛めているんだな! 可哀そうに!

 多分――おまえは傲慢なのだろう。そして、その傲慢さが、どのくらいのものかというと、おま

えの苦痛と同じくらいの奴なのだ。というより、いわば苦痛という金を出して傲慢という物を買つ

たといえるかも知れない。そして、おまえはこんどはその自分が買った傲慢という品物を人々の上

にふりかざして、それ相当の代価で売りさばこうとしているのだ。

 さあ! 買った、買った。――

 おまえは、大道商人のようにおまえの商品を見せびらかして叫ぶ。だが、敵もそうおいそれとは

買わない。さんざんひねくり廻したあげく、こいつはもっとまけられる筈だぜ、なんて吐かす。し

かし、そんなのはまだいい方で、中にはこっちがいい鴨だと思っているのが、案外と手強い商売敵

だったりして、どうだいこっちの品物の方がずっと上物だぜ、一つ買わんかね、とふところからも

っとしぶとくひんまがった奴を取り出したりするのだ。

 飼育人の場合も、ちょうどそれだった。もっとも、この場合は立場上自然な成行として飼育人の

方へ勝をゆずらねばならない気味もあるにはあったが、それにしても、平等な条件のもとに立ち合

ったとしたら、恐らくおまえは――降参しただろう。

 彼は、獣に過ぎないおまえを人間的に苦しめようとしたものだ。

 例えば、食物をおまえに与える時にしてもそうだ。彼は決して普通のやり方はしない。まず、肉

片を取り出すと、何か変な歌を歌いながらおまえの鼻先でそれをふらふら振る。おまえはもう慣れ

ているので、横を向いたまま空きっ腹を我慢している。突然、彼はその肉片をもったまま行こうと

する。おまえはハッとして立ち上る。彼はにやっと笑い、又お前の鼻先にもどしてゆすってみせる。

ついに、おまえは、我慢できずに唸りだす。と彼はぽとりとそれを落す。檻の中へではなく、檻

の前だ。彼はそれに土をたっぷりとなすりつけ、ゆっくりと立ち上り、急に勢いをこめてそれをお

まえの顔へ叩きつける。――とまあこんな具合だが、これはほんの一例だ。理由もなく棒でこ突き

まわしたり、聞くに耐えない悪態をつきながら唾をはきかけたりするのは普段のことで、そのため

に随分、彼を憎みもし、また自分でも情けない思いをしたものだ。

 こんな場合、通常世間ではどんな方法で心のうっ憤を処理するのだろうか。咬みついてやること

も出来ない、罵り返すことも出来ない、報復する手段もないおまえの存在全体は、その上まったく

彼の意志にかかっているのだ。

 おまえは、彼をじっと観察し、研究しはじめた。そしてやがて、おまえは彼についての考えを次

のように結論づけ、おまえ自身納得したのであった。

 彼は、世間のすべての人間に劣等感を抱いて、常に他人から虐待されており、そのうめ合せとし

て、おまえを仮に人間と見たててそうした仕うちにでるのだと。それからは勿論、おまえは彼を

憐れみ許すことにした。そう考えてしまえば以前のような憤懣はまるで感じなかったし、肉体の

上に加えられる苦痛は最初から問題ではなかったのだ。……

 しかし、実際にどうにもならない苦痛はやはりあるものだ。そして、そうした苦痛は、えてして

自分の外側からやってくるよりも、自分の内側にちょうど何かの病気のように居すわっていて、

時々、ちょいちょいと針のようなものでつつくのだ。すると、おまえは急に息苦しくなり、毒がま

わったように七転八倒、ついにはその苦しみから逃れるために自分で自分の首を締めようとしては

それもできず、誰か俺を殺してくれ! と叫びだす始末だ。この得体の知れない病気。(だが、一

体こいつはいつからおまえの中に住みついたのか?)たしか、おまえが「閉じこめられた獣」にな

ってから……いや、それともずっと前から隠れていたものが、こういうことになったので急に暴れ

始めたのだろうか………。

 時には晴れたまま、そして多くは曇ったまま、毎日訪れる日暮、落日。日中の騒音が徐々に夕も

やの中にとかされ、おまえだけの不思議な夜がやってくる時、それはまるで一晩ごとに新しい扮装

でやってくる青白いこびとのようだった。見物客の見世物になることは、おまえにとってなんでもな

い。彼等はおまえの外形だけに関係することだから。飼育人の手ひどい仕打は、おまえには偶然の

災悪以上の意味はなかった。しかし、おまえは自分の中に巣食う精神がおまえ自身をさいなむ時、

おまえは自分をどうすることも出来ないのだ。(いったい、あいつがおまえ自身の精神だろうか? 

それなら、どうしておまえを苦しめたりするのだ)

 夜のとばりが、おまえの住居をつつむ頃、そいつは、溜息のようにおまえの中で動きだす。そして、

最初は聞えるか聞えないかの囁きが、おまえの耳に不思議な話をそそぎこむ。……やっと一日が終

ったね。………やっぱりなれた事とはいえ、こうして済んでほっとするよ。さあ、ここで煙草でも

ふかしたいんだけど……おっとっと、禁物、禁物、外の世界とはわけが違うんだった。ここは檻の中、

でもまあこのところ、健康そうでなによりだと思うよ。健康って奴はいいものだからね。無邪気で、

明るくって、ただちょっぴり退屈ではあるけど……え?…ああ、退屈って云っただけさ。……やが

て、そいつは際限もなく喋りだす。最初のゆっくりがだんだん早くなる。ついにはべらべらまくし

たてる。それとともに、おまえの心はえぐられるような痛みを感じる。血がどっと流れだす。と、

おまえは気が狂ったように叫びたてる。獣め! このけからかしい獣め! すると、そいつは得た

りとばかりげらげら笑いだすのだ。

 これはいったいどういうわけなんだ。おまえの精神、少くともおまえの中に住んでいるそいつが、

おまえをからかう。からかうだけではない。そいつは、おまえの記憶や想像をつつきまわして、外

の世界のことを無理やり思い出させたり、血のしたたる鶏頭を食べる現在のおまえを鼻で笑ったそ

のあげく、おまえがうろうろと檻の中をかけまわったり、食物を見るたびにのたうちまわるのを見

て、有頂天になっているのだ。いったい、そんな恩知らずがあろうか。考えても見よ。もとはとい

えば、おまえが不潔な食い物でも食べ、せまい檻の中で忍耐していればこそ、奴も生きながらえてい

るのではないか。

 それなのに、奴は奴そのものの存在の根拠でもあるおまえを苦しめることを趣味にしているん 

だ。きっと奴は、この上ない高慢野郎に違いない。それで、あいつはおまえと一緒に住んでいる癖 

に、おまえとはまるで違った生れででもあるかのようにおまえを見くだしているのだ。そして、自

分はそれこそくわえようじで下賤な仲間が早く死んでしまえばいいなんて思っているに違いない。

 が、一体、そんな喜び方があろうか。そんな苦しめ方にどんな意味があるというのだろう。……

しかし、もうこうなったら、おまえは自分の中に、やがてはおまえの生命そのものを亡ぼすものを

飼っているのだ! そして、そいつがおまえの精神という奴だ。かって、お前が人間であった頃、

おまえをそのように人間として支えていた理性や、美的感覚、そいつらが今、おまえを殺そうとし

ているのだ。

 それは、おまえは獣であり、そして閉じこめられた獣に違いない。だが、少くとも、ここで生き

抜こうと努力しているおまえを、そいつは鼻で笑って、蹴飛ばそうとしているのだ。おまえは、見

る影もない獣に過ぎない。だからこそ、おまえは自分の現状に適応しようとしているのだ。生きよ

うとしているのだ。なのに、そいつ――おまえの精神は、その努力をあざ笑い、その空虚な観念の

世界の中へおまえを浮かび上がらせ、そこでおまえを抹殺しようとする。そいつは過去の中から持

ちこまれた亡霊のくせに、現在のおまえの首をしめようとしている。……

 おまえは、早くから寝わらの上に横になることにした。そして、眠りが早く訪れるように、残り

の夜の時間をせまい檻の中での荒々しい運動にすごした。

 そして、おまえは殆んど夢も見ずに眠る。一匹の獣として、完全に獣だけの存在として……そし

て、おまえは徐々に成功したのだった。そうした暮しを続けるうち、おまえの中から、過去の亡霊は

力を失い、もう最初のうちほど苦しめられることがなくなった。習慣と怠情がおまえを支配し、無

為のうちにおまえは肥った。――

 朝、けだるい眼覚めとともに、明るい太陽が東に昇り、うす紺碧の空をよぎりつつ午後に近づく

間、おまえはぼんやりとかすんだ眼を漠然と外へ向けている。やがてあたりに人影が立ち、ざわめ

きがおまえの前を流れていく間、おまえは温かい日差しを浴びて眠ったり、ふと何気なく立ちあが

って通行人の顔を眺めたりして過ごした。時には以前人間であった頃の事を思い出すこともあった

が、それも、ちらと頭をかすめる影のような思いで、かっては現実であったものも、今は幻想のよ

うに弱々しく実感をなくしたまま遠ざかっていた。

   

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2010-10-14 獣の眼(上) 編集

 なにがどうなのかさっぱり分らない。まわりは真の闇、一寸先も見えない。完全な網膜像の喪失

――第一自分がどんな形をしているやら、手をもっているのやら、足がついているのやら、それす

ら感じられない。まわりには息苦しい闇が一杯だ。一体どっちが下だろうか、上だろうか、とらえ

どころのない空間をぐんぐん落ちていく感覚、無限の時間を漂っている感じだ。純粋な恐怖がひし

ひしと身をしばり、もうやめてくれ! と叫びたくなったその時、一筋の光が前方から進んでくる

のが見えた。夢中でその光の中へ泳ぎいり、ほっと息をついた。――次第に視野が明るくなってく

る。眼の前に網目のよう に黒いものがぼっとひろがって見えた。樹木だ。

 

         1   

 一滴、そして一滴、水しずくがその黒いものの下でみるみるふくらむと、やがてきらりと光って

めまぐるしく地面に落下していった。点、点、点、湿った地面の上にいくつもの小さな穴があく、

それが又、次のしずくで崩れ去る。限りない水滴の落下のあいだから、ひっそりとしめった匂いが

そこらじゅうにしていた。

 金網の向う側に妙に白いものが立つたまま動かずおまえを注視していたが、おまえはわざとその

方を見なかった。例の一本足で立っているくちばしの長い鳥を、改めて見るまでもなかろうと思っ

たからだった。鳥は囲いの中にいれられていた。それは桜の樹間に、それよりは少しばかり高く在

る、釣鐘を伏せた恰好のいれものだった。赤く錆びだ細い鉄骨が横骨に組まれてまるくめぐらされ

上方は曲りつつ一点に合わさっている。それはどこか中世風の悲しみをみせている鳥の檻である。

 都会の郊外にあるこの有料公園の中に、最初はこの鳥の檻だけがあったのだが、今では動物も増

えて新しい囲いや檻ができている。

 真黒い毛皮の動物がその中でしじゅう首をぶらぶらさせている四角で小さくて頑丈な檻、コンク

リートの高台の上にあの鼻の長い動物を引きとめているくさりと幅広く深い溝の囲い、角の生えた

動物をその中に遊ばせてある木の囲い柵、一つ一つ見て廻れば、この檻という動物達を閉じこめる

ための人為的な工作には、実にさまざまの方法があることが分る。それはなかば、そこに入れられ

ている動物の習性に従いながらも、なお広さや高さの点においてこまごまとした制限を与えている

のだ。

 閉じこめられた動物達は、彼等の以前住んでいた世界をもっと収縮し、要約したちゃちな箱庭を

与えられていたが、それとても、あたかもそれらの環境でもって生かしてやっているではないかと

いう厭味と、もはや絶対に自由にはさせないぞという真意を無言のうちに悟らせてやまない恰好に

である。

 おまえはその有料公園の中を歩くうち、いつも同じ方向から聞える動物の唸り声を耳にした。そ

れはまだ檻に入れられて間もない虎で、堅いコンクリートの床の上をぐるぐる廻りながら、囲まれ

た鉄柵の内側でたった一匹で吠えているのだったが、その絶え間ない驚くほど規則的な同じ調子の

吠え声は、深い生理的な苦しみそのまま、おまえの胸を痛くしめつけるのだった。

 動物を閉じこめるための檻というものは、いったいいつごろから造られ始めたのであろうか。恐

らくは最初、人類の狩猟時代、捕えられた凶悪な獣を単に一時的に拘禁する目的を有していたに過

ぎないこのいれもの、それが観賞の用途にまで使われだし、その中にあらゆる種類の動物を収容す

るようになったのはいつの頃から始まったことだろうか。

 今、人類はその方法の発達した様式として動物園をもっている。それは人々がその園へ金を払っ

て入り、そこここに閉じこめられた動物達を見物する時、殆んどそれが、閉じこめられているとい

う形容には全くそぐわないほど、その環境が動物達に自由を与えているかのように思いこませるの

だ。

 オットセイの水泳、豹の木登り、猿の岩山、狸の洞穴、おまえもそこで動物達がありあわせの材

料ではあるが、それを利用して遊び或いは生活しているのを見て、その自然そのもののようにみえ

る優美な動きにうっとりするのだ。

 動物達を見るのは楽しい。特に危険な動物を安全の立場から眺めることは。そしてそれが自然の

ままの姿態に近いものであればあるほど喜びは大きいわけだ。

 しかし、いったいそんな喜びがなんだろう。おまえの中で、突然、前ぶれもなくその喜びは消え

る。そして、おまえはその時、ずっと前からそうであったが、今もそうである真実――彼等が囚わ

れの身であることに気づくのだ。彼等は囚えられている。……彼等の生活は彼等のものではない。

彼等の勤作は彼等によるものでない。……それからはもう、前には動物達を見るごとに新奇な喜び

に胸をときめかせたおまえが、今はそれらの動物達を見るたびに別な悲しみに打たれるのだ。

 金網の向う側に、鉄柵をゆすぶって立っているどこか山男に似た黒猩猩を見たとき、悲しかった

ように――前には喜びであったものが、今は別な悲しみにとらえられる。(おまえは人が変ったの

だろうか)動物達の姿勢もなんとなく物憂げで灰色じみ、見るからにつまらなそうな様子をみせて

いた。

 彼等は囚えられている。彼等はもうどこへも行くことがない。彼等は檻の中へおのおの入ってい

き、そのまま死んだのだ。彼等は獣ではない。檻の中に住まうのは、ただ人間のものになった彼等

の形骸とそのおおぎょうな身振りだけだ。(いったいいつからだろう。おまえがこんな風に考えは

じめたのは)

 おまえの頭の中には一瞬、古ぼけた都会の地図が浮び、そして課長の顔が交替し、それがにっこ

り笑って挨拶する。おまえは弱々しく首を振るが、そのぼやけた灰色の印象は拭いきれない。やは

り(囚えられている)という考えがいつまでも残るだけだ。

 不意に、バケツを下げた一人の男が現れ、おまえの顔を、そして眼をじっと覗きこみ、去ってい

った。おまえは不愉快になって、また池の端の方へ向って歩いていった。

 池の鯉にパン屑をやっている子供がいた。おまえが煙草の吸いさしを投げると鯉はそれも食って

しまった。おまえは最初びっくりし、そしてしばらく胸をどきどきさせた。(あの鯉は死ぬかも知

れない。明朝もしくは今晩、白い腹を水の上にだして浮んでいる鯉がある! としたらそれはおま

えのせいだ)

 橋を渡って薔薇園に行った。草の生えていない白い砂の上に薔薇が散らばって生えていた。それ

は踏みつけられたように堅く小さくて、赤い花は地上に吐き散らされた血痰のようだった。おまえ

は薔薇園のなかほどにある日時計の傍までいってみた。白い御影石の上で、鉄の尖った針の影が眠

ったように午前十時を指していた。

 不意にぎくりとするような笑い声が背後でした。振りむくと、薔薇園の隅の方にある噴水のすぐ

うしろのベンチに腰を下ろしている女が、口に手をあててさもおかしそうに笑いころげているのだ

った。

 そのかたわらに女の方へ顔を向け、片手を女の肩にかけた男が坐っていた。巨大なイルカの口か

ら吐き出され、垂直に立ち昇る水柱は風に乱されてしぶきを飛ばし、鮮かな虹を架けていた。

 女の白い咽喉と横顔を見詰めるうち、おまえは、ふとそれが友子ではないかと思った。しかし、

それは違っていた。薔薇園を横切って噴水の後の男女から遠ざかりながら、思いなおして呟くよう

に□にだしていった。

「もしあれが友子であったにしても」

 おまえはかなたに聳える黒っぽい建物を眺め、それに向ってゆっくりと歩き進みながら思った。

(もしあれが友子だとしても私にはもう何の関係もないのだ)

 おまえは、友子が最後に寄こした手紙の一節を思い出す。……結局、あなたは私には無縁の人で

す。あなたが私達二人の関係に何一つ有意義な結着をつけることを望んでいない――(或いは考え

てもいない)ということがはっきりわかったからです。どうしてこんな肝心な事がもっと早く分ら

なかったのでしょう。私は自分で自分を笑いたい気持です。あなたや私達がつくっていたあの田舎

でのグループ、あの無神論者達、救いようのないデカダンに憑かれた人達ですら、みんなそれぞれ

模範的な社会人になっているというのに。あなたはまさかまだ、あの陶酔から脱け切れないでいる

のではないでしょうね。……

 読みつづけるうち、その中から女の嘲けりでも聞えてきそうなその章句の間から、おまえは友子

の激しい敵意を感じた。

 (無縁の人か!)おまえは苦笑まじりに呟く。(では何故、友子は私に近附いて来たのだ。……

いまになってそんな事をいうなんて……私は友子と一緒に愛についてもっと深く考えたかったのに

ふん、世間的なあせりのために……これが終りの形か!)

 おまえは侮辱された「関係」について何の抗議もしなかったし、勿論おまえ自身の気持について

手紙を書いて弁解しようなどという気持も起さなかった。そしてその後は、むき出しのままの孤独

がおまえをいっそう偏屈な人間にしてしまったのだ。

 おまえは公園の喫茶室のテーブルにひじをつき、眼の前の花を眺めていた。ありふれた軽音楽が

かすかに室内を流れていたが、おまえは聞いていなかった。おまえは花を、その黒い傷だらけの机

の上でほほえんでいるようなうす紅色の花びらを見詰めていた。何という名の花であろうか、黄い

ろい花粉をまぶしたその水々しい花しべを取りまいて、紅い花びらはさながら燃えあがる焔であっ

た。

 ……花びらが動いたように思った時、おまえはふとめくるめくような動揺を覚え、ふいにおまえ

自身がその焔の真中に飛びこんだのを感じた。――だがすぐに引き戻された。ありふれた音楽が聞

えだし、花はこれもありふれた唐草模様の瓶に生けられた単に紅い花に過ぎなかった。

 おまえはそのまましばらくじっとしていた。次の瞬間に起る何らかの変化を待ちうける心霊術者

のように、ある時を期待をもって待っていた。そして――すぐにそれがやってきた。おまえは再び

こんどは花のその黄いろい中心にまっすぐ飛びこんだ。

 その瞬間、おまえは躊躇のない一匹の蜜蜂であった。おまえは燃えるように明るい花びらの真中

に飛びこみ、花しべを押しのけてもぐりこんでいった。――甘い体をとろかすような蜜の匂い、虫

惑的な魔法の世界がおまえのまわりにひらけ、おまえは恐ろしく無鉄砲な喜びに打ち震えながら蜜

を吸った。おまえはすべて考える能力を失ったかのようであったが、それにも優る喜びを得たよう

だった。単純な本能がおまえを明るくし、次の行動を全く予期することなしに飛びあがると、まば

ゆい花園の上を飛んでいた。

 突然、ワーンという喚声が上から降ってきた。黒煙のような一群が行手をさえぎると、妙な恰好

の蜂がおまえに呼びかけた。

 「どうしたのよ、いったい」

聞き覚えのある声だった。前に女の白い顔が浮んで、不意にどす黒い唇を動かして喋った。         

「どうしたの」                                           

思いもかけぬ、その女は友子だった。                         

「さっきから、じっとこんな所に坐って、私知っていたわ、薔薇園に居た時から」

「あ、じゃあ」

おまえはやっと気をとりなおして口を動かす。

「やっぱりそうだったのか、君だったのか」                               

「驚いたわ、こんな所で会うなんて」

友子は落ちつかむげにそわそわとあたりを見廻している。

「連れがあるんだろう?」                                

「ううん」

友子はあいまいに答えて腰をおろすと、こずるそうに首をちぢめて笑った。

「一年ぶりね」

ありふれた軽音楽が鴫り、廻りにいる人々の間から漠然とした騒音がたちのぼっていた。

「あんた、ちっとも変らないのね」

友子が軽蔑の眼差で見ている。

「昔のまんまさ、やっぱり」

「私は変ったわ、ねえ変ったと思わない」

友子は、突然その派手な水玉模様のブラウスから、とぎつい原色のコートのえりに手をやりなが

らいった。しかしそのえりは肩をおおうほど幅が広く、おまけに赤が強すぎるせいか、友子の顔は

妙に小さく、かつ青ざめてさえ見えた。

「うん、そう思うな」

 おまえはそのコートが友子に似あわないと感じながらそう答える。

「私ね、結婚するの」

「誰と」

「運転手よ」

 友子は得体の知れない喜びで急にそわそわして打ちあけた。

「しっかりした人よ」

「ふーん、それはよかったね」

 おまえはその場をとりなすような早口でいったが、唇に乾きを感じた。

「頼りになる人」

 友子は、おまえの顔を真面目に眺めながら念を押すような云い方をした。

 その時、さっき薔薇園で見た男が入口の方へ歩いていくのが見えた。

「待って、すぐ行くわ」

 友子は声高に男に呼びかけた。

「行くのかい?」

「さようなら、元気でね」

 友子は濡れた歯を見せてかすかに笑うと、男の後を追って入口から駈けだした。

 おまえは、さめてしまったコーヒーを飲みほすと、立ちあかって窓から外を眺めた。窓枠の中に、

肩幅の広い運転手と腕を組んだ友子のうしろ姿が遠ざかっていた。

 おまえは急に疲れを感じた。めまいと無力感がおまえをとらえ、再び椅子にしゃがみこんだ。

 ――ふと思いついて、食事を注文した。しかし、運んできたのを見ると全然食べる気がしないこ

とに気がついた。金を払い、そこを出ると、林を横ぎって映画館の方へ歩いていった。題名はみな

かった。中へはいるとじめじめと湿った匂いが土間のたたきから立ちのぼっていた。暗闇の中から

子供達の叫び声が時代劇の役者のせりふと一緒になって聞えていた。半時ばかりも坐っていたろう

か――ぼんやりと白い画面の動きを眼で追いながら、結局よけい疲れただけで表へ出た。

 太陽は昼間の光を失って西の方へ近づき、林の中はこ暗かった。むなしく単調な光が園全体を包

みこみ、すべてのものはよそよそしい光に浮び上って変らなかった。今は池の向うに在る薔薇園の

傍の通路を、何か歌いながら行く二、三人の子供達がかなり遠くちぢこまって見えたが、それを見

ると、何故かおまえは身震いし、そして出口へ急ぐ足をはやめた。(そうだ! また明日から相も

変らぬ日が続くのだ。それはもう絶対だ)

 朝はかっきり七時に目を覚ます。電車に遅れないように時計を見ながら食事をする。七時半に下

宿を出る。あの急な階段を急いでかけおり、果物屋の角をまがる。そうすると駅が見える。いつも

のとおりの乗客の顔ぶれ、新聞を読みながら三十分、やがてS駅につく。いつものとおりの混雑、

あの街の雑踏、匂い、会社への坂道。タイムレコーダー。八時半、始業開始のベル。朝のお茶、挨

拶、挨拶、あの卑しい挨拶、そうして仕事、きまりきった手順で行われるあの退屈な仕事。……

 動物舎のあたりを通り過ぎている時だった。ふと、足をとめてまわりを見廻した。そして(誰だ

ろう、いったい、今の俺を見ているのは?)と考えてみた。

 おまえは、視線をもとに返して、二本の杉の木の下にすえられた一つの檻に眼をとめた。確かに

その中からだった。その中の何かがおまえを非常に興味深い眼で、つい今しがた眺めた筈であった。

おまえは足音を忍ばせてその檻に近づき、中を覗いて見た。

 檻の奥のうす闇の中に、毛深い一匹の獣が首を垂れたまま、おまえの眼を、ほとんど覗きこむよ

うな眼付で見詰めていた。

 ――暗い陰気な眼……おまえはぞっとしてその眼からおまえの眼を放そうとした。しかし、その

眼は放さなかった。その眼は獣の眼のようでなく、おまえを知っているような眼だった。何事かを

語りかけてくるような、意味を含んだ眼であった。(何だろう?)おまえは、不意に云い知れぬ深

い恐怖にゆり動かされ、夢みるように心につぶやいた。

 (……これは獣の眼ではない。こんな獣の眼があり得よう筈がない。この眼はまるで人間の眼だ!

私と同じ眼だ!)

 突然、檻の中の獣はのっそりと立ちあがると、見開いた眼をそのまま、おまえに近づいてきた。

その黄金色に輝く眼は外光の中でいくらか細まり、おまえの眼の前でかすかな笑いの色さえ浮べて

いた。

 そして――次の瞬間奇妙な事が起った。――その眼の前の獣の姿が確かにそのときおまえの眼に

は霞んで見えたのだ。次に……おまえは気が狂ったように叫びだすべきだったろうか――。

 次に起った事、獣が徐々に人間に変化していくのを認めた時、また遂に人間の姿――もう一人の

おまえ――になりきったその獣が、にたりと笑って鉄柵ごしにおまえを見過ごし、そのままゆっく

り歩き去った時に、いや、おまえは事態の真相がよく呑みこめなかったのだ。現実に、檻の内側の

者が今はかえっておまえであり、そのおまえのからだすら獣のからだに変化しているのに気づいた

時にも、……いや、おまえは叫びだすかわりに心の中でつぶやいた。(ふんふん、これはまた例の

幻覚だな!)そして、むしろ軽い気持でこの全面的転換に始まった幻覚の終る時を待った。

 おまえは、ぼんやりと毛深い獣のからだを鉄の柵にもたせかけ、門の方へ遠ざかっていくもう一

人のおまえの後姿を不思議な思いで見送った。それは確かに、おまえの肉体と容姿をそなえた人間

であった。しかし、おまえに見られている、おまえとは別個の内容をもっておまえから離れてしま

ったおまえの形骸であった。形骸は一度門の所で振り返ったが、その顔は笑ったようでもあり、そ

うでなかったようでもある。

 彼が門の外へ消えた時、おまえは漠然とした不安を感じながらも、奇妙な興味から改めて自分の

体を覆いつくしている淡灰色のごわごわした長い毛を見詰め見おろした。――おまえはちょっとそ

れを唇でさわってみたが、すぐになんともいえぬ嫌悪感に襲われた。

 ――ふっさりと太い尻尾が後に、心持ち巻いてさがっており、四本の骨ばった白い足が敏捷そう

におまえを支えて立っていた。それは確かに獣の体であり、足であり、尾であった。獣の顔を自分

では見ることが出来なかったが、それでもおおよその感覚から、それらが牙をむきだし耳元まで広

がった口と、頭の両脇にぴんと立ったままの鋭三角の耳であることにほぼ間違いなかった。(これ

はどうだ!)おまえはおどけたように□の中でいってみた。

 おまえは、ゆっくりと四本の足を交互に使って歩きながら注意深くおまえのまわりや天井の鉄枠

を見、それが完全におまえをとらえていることを確かめた。足の下のコンクリートの床と背後の壁

を除いたあとの四面は、すべて鉄格子を使って閉ざされており、おまえにとって自由な空開は、縦

横高さともに二米の幅でしかなかった。恐らく奥の寝部屋に通じているのであろう板の仕切が、壁

の下方に見えたが、その頑丈でぶあつい感じの板は頭でおしあげようとしても待ち上らなかった。

多分、裏側の高い所で鍵でもかけているに違いない。……

 壁に近い方の隅に、低いコンクリートで囲まれた水槽があった。白く濁ったその水を覗いて見る

と、そこに人間の顔でない獣の顔が映っていた。(やれやれ、一体この幻覚はいつ醒めるのだろう

?)急に募ってくる憤懣の念を押えながらおまえはそう考えた。

 見れば、園全体は向うの森に落ちかかっている夕陽をうけて赤々と輝いていた。すぐ傍の茂みも、

向うの薔薇園も、食堂の建物も、そして豊かな水をたたえた池は、夕風のためにこまかなさざ波を

たてて動いていた。やがて、それらすべてのものの上に黒い影が覆いかぶさり、空の雲々が朱紫色

に凝結し西の空に集まる頃、園は閉じられるに違いない。そうしたら――もし、それまでにこの幻

夢が醒めなかったら――おまえの意識は、その時、帰らなければならない下宿の事や、今日で二日 

も休んだ会社の事を思ってかすかないらだちを感じていた。(しかしあれは一体何の音だろう?)

 カラカラと金物をひきずるような音が、どこからか聞えていた。その音は、断続的に、とぎれが

ちに、遠く、また急に近くおまえの耳を打つ。おまえは不思議な思いでその音を聞いていた。

(いったい何の音だろう?……)

 急に、前後の脈絡のない哀しみがおまえをしめつけた。……おまえは床の上にすわり、首を両足

の間に垂れて、低くまぎらわしい発音でうなり始めた。……と急ぎ足に重苦しい気分がおまえの周

囲から圧しくる。さまざまの音響、しめ殺されるような叫び声、ぴちゃぴちゃいう咀嚼音、駈けま

わる足音がおまえの耳に轟く。とたん、おまえは飛び上った。バケツをさげた青衣の人間が現れ、

バケツの中から明らかに肉塊と知れる物をとり出して、おまえの鼻先に投げだしたのだ。それは見

れば実に厭らしい血まみれの肉片であったが、おまえの鼻は、おまえの意に反して嬉しげにぴくつ

き口には唾液がたまる。事実は確かに、おまえの頭脳や眼が人間の精神に支配されているにもかか

わらず、おまえの胃や鼻は獣のものであることを語っているのだ。

 おまえはその肉片を睨みつけ、じりじりと後退しながらいった。

「違うぞ、これは、私は人間だぞ」

 しかし、おまえは同時にひやりとする。言葉が、おまえの発する言葉が、みんな単調でごろごろ

いう低い音になってしまうのだ。

 おまえは苦心の末、やっと後足だけで立ち上り、出来るだけ人間のように振舞おうとする。万が

一でも彼が気づいてくれればと考えて――しかし飼育人はにやにや笑いながら、おまえの曲芸を楽

しんでいるのだ。

 おまえは絶望しきって叫んだ。

 「ここから出してくれ! 私は人間なんだ!」

 おまえは鉄枠にぶっつかり、青衣の人間に吠えつこうとした。飼育人は嬉しげな笑い声を立てて

叫んだ。

 「食え! 畜生」

 立ち去る彼におまえは叫んだ。叫びながら鉄枠にぶっつかり、檻もそしておまえの獣のからだも

傷つけようとした。一撃ごとに、底知れぬ恐怖と気も狂うような寂寥を覚えながら。――(やはり

これは幻覚ではないのだ!)と悟る。

 ………ふと、もう動きもとれぬほどの疲れに打ちのめされ、心が次第に静まってくるのを覚える

と、すでにあたりはとっぷりと暮れていた。体のそこここがうずくような痛みをもって感じられた。

おまえば立ち上ると、うつろな心の奥でめまいのするような後悔と敗北の事実を味いながら、足を

ひきずりいつのまにか開いたままになっている仕切をくぐって寝わらの上に横になった。……

 ……おまえはあまり眠らなかったらしい。おまえが目覚めた時、月の蒼白い光が仕切の内側へさ

しこんでいて、おまえの横たわっている寝床をぼんやり明るくしていた。

 おまえはひどく空腹だった。表に打ち棄てられてある肉片の記憶が、現実にそよ風が運んでくる

生々しい匂いとともに強くおまえを刺戟した。

 おまえは立ち上ってくぐりを抜けると、月に照らされたその黒い塊をうかがった。食わなければ 

餓えるという意識、食いたいという気持が燃え上り、獣の行為に対する嫌悪感としばらく争い、そ 

して勝った。――おまえはそれに近づき、それを呑みこんだ。……

 ……不意に、耳元でけたたましくベルの音が鳴り渡った。すっかり熟睡していたのだ。さあ起き

ねばならない! 食事は? 咋夜の残りがあった筈だ。あれをコンロにかけ、水をすこしいれて温

める。そしておかずは? えい福神漬ですましてしまえ! ええと今日は、会社で専務の送別式が

あるんだった。そうだアメリカヘ行くんだっけ! 遅れないようにしなくっちや!

 おやおや、困ったぞ。ズボンの裾がこんなに汚れている。一体どこで? さあ、早速あの即席の

洗浄剤をつけて落さなきや……

 あれ! この毛のはえた棒のようなものは何だ? こりゃあ、一体何だ? それに、俺が寝そべ

っているこのベットは、中のはらわたが皆飛びだしてやがる。ふんふん、出がけに下宿のおばさん

に頼まなくちゃ………。

 とたん、おまえは脇腹に痛烈な打撃を食って悲鳴をあげて飛び起きた。同時に、声が頭の上から

降ってきた。

 「起きろ、いつまで寝ているんだ!」

 おまえは、気が狂ったように叫びながら戸口からとびだすと、檻の中をかけまわった。混乱と怒

り……おまえは力まかせに鉄柵にぶっつかり、うなり声をあげながらそれを噛み破ろうとする。

 突然、おまえは身震いとともに立ち止り、水槽の水をのぞきこむ。(夢ではなかったのだ!)お

まえの血は一瞬凍りつき、身をひろがえして奥の部屋へ走りこむ。

 太陽の明るい光線がおまえの敷わらの上で踊り、素晴らしい上天気と健康を告げていたにもかか

わらず、おまえは頭を上げる気持になれなかった。

(俺は獣だ)おまえはげっそりとなって呟く。(もう、どうしようもない……それに獣としてあの

汚らわしい肉を食ったんだ!)おまえは、うめき声をあげる。ついではっとした。

(そうだ! また今日も俺はそうするに違いない。ここにいる以上! これからずっと先も!)

(ずっと先! じゃあ、俺はこれから先も死ぬまでこの檻の中に閉じこめられているのか。来る日

来る日が何の変りもなく、希望さえもてずに、そして死ぬ時もけものの姿で死ななければならない

のか……そんな馬鹿な! そんな事がある筈はない。そんなことが! 俺は人間だ。少くとも許せ

ない……そうだ、きっと助かるにきまっている。これは幻覚に過ぎないんだ、悪い夢に過ぎないん

だ。いつまでも醒めぬ筈がない。俺はまた外へ出るのだ。外へ、再び人間として、二本の足で真直

ぐに立って歩き、青空をあおぎながら色々なことを考える。

 おまえの惑乱した頭の中を、その時田舎の家や、その周辺の美しい山々の姿、ところ構わず歩き

まわった懐かしい記憶、めぐり会った人々のさまざまな顔が、花火のようにたち現れ、夢幻的に燃

え上ったが、それも一瞬、突然虚空をかきまわす灰色の毛の生えた足が見え、現実というものの底 

知れぬ絶望性にハッと我にかえると、激しい憤りと恐怖で気も狂いそうになるのだった。     

 だが、いったいおまえとしたことがどうしたらいい。憮然として、汚らしくしめった寝わらの上

にだらしなく横たわり、世間の誰にも知られぬ自分と自分の嫌悪を噛みしめている以外に、おまえ

にとってどんな方策があるというのだ。(夢ならば早く醒めればいい)

 狭く頑丈な鉄の檻、変らない獣の姿、おまえは再び、太陽の日差しの下に自分の姿をさらし見た

くはない筈だ。閉じこめられた獣、行動の自由を失った獣、飼われてã

DavidDavid2013/03/10 12:28You have shed a ray of sunshnie into the forum. Thanks!

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