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2016/08/16(Tue)

宇野朴人ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミン』(電撃文庫宇野朴人『ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミン』(電撃文庫) - shanghai / ラノベ部 を含むブックマーク はてなブックマーク - 宇野朴人『ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミン』(電撃文庫) - shanghai / ラノベ部

アニメ観てとりあえず1巻だけ読んだ。もう10巻も出てるようだ。

銀英伝の要素をちゃんと咀嚼した上で差別化まで考えてあるという感じで、銀英伝の影響の大きさを考えればこういうのが(今じゃなくて過去にも)もっとたくさんあっておかしくないのになあ、と改めて不思議に思った。書きたくても(戦記ものっぽい部分は)素人が簡単に真似できるジャンルではないのと、単に当たったものが少ないので私が知らないだけかもしれない。

要約すると「戦争好きじゃないラインハルトがヤンと手を組んで帝国を乗っ取る話。で、共和国との戦争に適当な敗戦でケリを着けて(進歩的な相手国の影響を受けることで)国を改革するのが最終目的。理由はこのままじゃ帝国がダメになっちゃうから。ついでにキルヒアイスはヤンの幼馴染」という感じか。軍人になりたくなかった主人公が非常事態において軍事的才能を発揮してしまい不本意ながら軍で出世していく、ていうノリはまんまヤン。でも怠惰を美徳とする以外に女好きだったりやたら辛辣だったり性格はいわばシェーンコップが入っててちゃんとヒネってはある。「敗戦が目的」というのも突飛ではあるがこの作品のオリジナリティとしてヒネった部分だろう。

でも1巻を書いた時点では作者は大学生だったとのことなので、そんな若い人がなんでこんなコテコテの銀英伝なんだろう……とは疑問に思った(笑。 直接の言及はないがヒロインが金髪と赤毛なのは明らかに銀英伝オマージュであろう。あくまで1巻を読んだだけなのでこの時点での感想は「銀英伝ベースで適度にヒネりを加えてちゃんと仕上げたなあ」というもので、ある意味あまり褒めてないともいえるが、この先は他の要素が強く出てくるのかなあ。現時点ではアニメが面白ければ続き読むかも、くらい。

というのもタイトルにある「精霊」が四大元素(?)を司る妖精ライクな小さい生き物として登場するもののマスコットという感じでもないし今のところ存在意義がよくわからない。軍人には必ずパートナーの精霊が付くのだが、銃が風の精霊の力を使った空気銃、という程度。ただ、主人公の師がまだこの世界では学問として認められていない「科学」の徒であり、精霊古代文明による人工生命ではないか? という仮説を立てたりしてるので(精霊はチップの様な魂の部分を身体から分離できるといういかにもな描写)、SFっぽい設定に着地を考えてるのかもしれない。そう考えるとストーリーもダメになった末期の帝国をソフトランディングさせる話、という意味ではむしろアシモフファウンデーションなのかもしれない。主人公の師匠が異郷にいる科学者というのもちょっとそれっぽい。考えすぎかもしれない。繰り返すが既刊10巻なのに1巻だけ読んであれこれ予想しててもしょうがないすね。


2015/02/17(Tue)

荻原規子RDG レッドデータガール』(角川スニーカー文庫、全6巻) 荻原規子『RDG レッドデータガール』(角川スニーカー文庫、全6巻) - shanghai / ラノベ部 を含むブックマーク はてなブックマーク - 荻原規子『RDG レッドデータガール』(角川スニーカー文庫、全6巻) - shanghai / ラノベ部

読み終わったのは一年も前で今さら感はあるが、やはり書いておくべき作品だろうと思って挙げる。

古き良き時代のラノベの美風を残した佳品。以下概ね絶賛である。

成り立ちからしてちょっと違う。本作の初出はカドカワ銀のさじで、これは未読だが児童書/ファンタジーという括りのレーベル。それから角川文庫に収録され、アニメ化に伴って角川スニーカー文庫版が刊行された。よくわからないレーベル(失礼)向けに書かれ、懐の広い角川文庫に収録され、これまた境界の曖昧な、ラノベの老舗レーベルともいえるスニーカー文庫にもなる。これは「ジャンル小説に収まり切らない作品が吹き溜まりのように集まった」ラノベの成立過程を個体発生的になぞっているかのようではないか。

内容は少女小説が一応のベースになっているといえるが、ファンタジーであり学園ラブコメでもあり超能力バトルもあり、伝奇SFでもある。周辺のサブジャンルの成果をごった煮的に取り込んだ、まさに古典的なラノベ作法といえよう。

現在の(最近のw)ラノベは、よりラノベに近い分野への参照――たとえば「魔王と勇者」だとか「脳内選択肢」だとか要するにTVゲーム文化などの解釈に趣向を凝らすものが主流で、それはそれで面白いのだが正直広がりに乏しいとも感じる。そこでもう一度ラノベの原点に回帰して、伝統的・古典的なジャンル小説を混淆して分類不能の豊穣さを獲得し直した本作の登場である。

無論、作者はそんなことを意識して書いているわけではなく、

どうやら私は、私の中でのファンタジーの概念を、「神話・歴史に基づく過去の文化遺産に足をつっこみながらも、既存の制約に縛られず、個人の空想の自由な羽ばたきを許されるもの」と、とらえているようです。

レッドデータガール・シリーズで扱った修験道も、陰陽道も、忍法もそのつもりです。

と、あくまで本人的にはファンタジーの範疇で書いているとのこと。

少女小説的な部分はジュブナイルとして書こうとして自然にそうなったのだろうけど、紀伊山中の神社で生まれ育ったためどこか浮世離れしていて本人もそれを自覚しているため引っ込み思案なヒロインと、外面がよく優秀だがヒロインに対しては意地が悪い相手役の少年、という取り合わせは極めてオーソドックスな少女マンガスタイルである。他に親友であり味方陣営のリーダーという立ち位置の真響とも、微妙な三角関係の気配があったり終盤まで世界遺産の指名を争うライバルでもあったりと、一筋縄ではいかない緊張感のある関係が続く。地球の自然と交感する霊的な力を持つ、絶滅に瀕した能力者を選抜するために創立された特殊な学校という設定はこれまた王道のラノベだし、ラブコメだけでなく能力バトルものとしてもそれなりの見せ場があって、とにかくバランスがいい。

陰陽師山伏修験者)、忍者(!)といった各種の能力も、単なるキャラ毎の味つけという水準ではなく山岳信仰などのルーツをしっかり踏まえた正統の伝奇小説といえる内容である。そしてヒロインである和泉子が「姫神」を降ろす憑代として最強の能力というより器の大きさがケタ違い、という展開も自然。さらに、「姫神」は未来から人類滅亡の歴史を改変するために降臨しているのではないか? という説が開陳され、姫神の人格は将来の和泉子自身かもしれないとも示唆される。ここまでくると壮大な時間SFである。

とにかく間口が広く様々なジャンルを取り入れて無理がない、懐の深い小説。強いて言えばレッドデータガールというタイトルはどうかな? とやや疑問だが、些細なことだろう。

アニメ版はかなり駆け足で、原作全6巻のうち5巻までの内容を消化するというある意味で不可解な構成だったが、能力バトルとしての物語はそこで決着しているともいえるし内容的に最大のスペクタクルは間違いなく5巻なのでTVアニメとしては正解かもしれない。少なくとも映像美には見るべきものがある。

     

2013/09/22(Sun)

野崎まどファンタジスタドール イヴ』(ハヤカワ文庫JA野崎まど『ファンタジスタドール イヴ』(ハヤカワ文庫JA) - shanghai / ラノベ部 を含むブックマーク はてなブックマーク - 野崎まど『ファンタジスタドール イヴ』(ハヤカワ文庫JA) - shanghai / ラノベ部

ロングロウドは、米国の先端技術を集めてくれる。それに、武器だって作ってくれる」

「うん」

「タチバナは、美しい服を作ってくれる」

「うん」

「僕は、心を作ろう」

「うん」

「君は、体を作れ」

 私は、うん、と頷いた。

「人間を、作るんだな」

「いいや、違うよ、大兄君。そこだけは間違っちゃあいけない。いいかい、大兄君、僕達は人間を作るんじゃない。女を作るんだ」

企画としては紛れもなく、TVアニメファンタジスタドール』のノベライズ――正確には、メディアミックス企画としてアニメと同時進行――なのだが、SFプロパー以外の何物でもないハヤカワ文庫JAに収録されていることからもわかる通り、生粋のSF小説。著者野崎まどの近刊『know』は読んでみたが、それこそSF大賞を獲っても少しもおかしくない堂々たる本格ハードSFだった。そして本作もそれと全く同様の水準で書かれた、SF小説である。

TVアニメファンタジスタドール』は、カードから実体化する「ドール」と呼ばれる人造の(?)少女が戦う、という、設定は全く荒唐無稽な、子供向けアニメのフォーマットをベースに採用した、しかしどこか調子の狂った独特のコメディとでもいうべき作品だった。

そこでこの小説はというと、内容は前日譚とはいいながらアニメ本編とはほとんど関係ない、ドールシステムが開発される過程の話である。カードから実体化する少女、という技術が如何にして開発されたのか? と突き詰めて考えればなるほどこうなるであろう、実にフェティッシュで変態的な小説だった(笑。

文庫本の薄い体裁をみれば一目瞭然だが、本編は短い。せいぜい中編である。

前半は、幼少期の性的トラウマという、言ってしまえばそれなりにありがちな経験をもとに「自分は周囲の人間とは全く異質だ」と悩むエリート学生が、まるで明治教養小説のような筆致で書かれる。実際、夏目漱石の『こころ』を意識しているのではないかと思われる部分がある。深刻な女性嫌悪の反動で親友との関係がちょっと同性愛志向に見えなくもないところなどは、その筋にもオススメできる(笑。

エピローグ部で、女性視点から総括するような台詞で終わっているのも、優れたバランス感覚だと思った。

巻末にはドール計画の年譜も掲載。公式設定と考えていいのだろう。プロデューサーである谷口悟朗の巻末解説によると、企画全体で押さえるべき設定は共有した上で具体的な内容についても相談を重ねたようで、下駄を預けられた著者が小説は小説と好き勝手に書いたという感じではない。著者側のコメントも聞いてみたかった。

 

2013/01/21(Mon)

虎虎『中二病でも恋がしたい!』(KAエスマ文庫)およびそのTVアニメ虎虎『中二病でも恋がしたい!』(KAエスマ文庫)およびそのTVアニメ版 - shanghai / ラノベ部 を含むブックマーク はてなブックマーク - 虎虎『中二病でも恋がしたい!』(KAエスマ文庫)およびそのTVアニメ版 - shanghai / ラノベ部

TVアニメの放送が終わってからまとめて観て、それから原作を買って読んだ、という順番なのでこんなに遅くなりました。

ていうか本作は京都アニメーション大賞小説部門第1回奨励賞受賞作であり、KAエスマ文庫というのは京都アニメーションが刊行しているんですが、売ってるのを見かけないと思ったら取扱店が極めて限られているんですね。よく知らないけどおそらく通常の取次を通していないということなんでしょう。なのでまず新宿にあるかなと思ったら西新宿の知らない本屋でしか扱ってないし、秋葉原ですらCOMIC ZINK-BOOKS新館、コトブキヤの三ヶ所しかない。正直どれも利用したことなかったので場所から調べてK-BOOKSで買ってきました。いくらアニメ化してもこれでは売れるはずがない……せめてアニメイトで扱うだけでも話は全く違ってくると思うのだが。否、個人的にはむしろAmazonにあれば他のどこで売っていようがいまいが関係ないのだが、ないのである。これは致命的だろう。京アニショップのオンラインでは買えるようですが。

そもそもKAエスマ文庫はおろか京都アニメーション大賞のことすら今まで知らなかったんだけど、「京都アニメーションによってアニメ化される」賞ということになればそのへんの新人賞より魅力的と感じる書き手は多いのではないか? まあ募集要項にアニメ化云々は何も言及されていないし、実績としてもこれが初だから、これからなのかもしれないが、インセンティブという面では意外と将来性のある賞かもしれないと思う。

さて、本作『中二病でも恋がしたい!』だが、私はもともと中二病に限らず「オタクの生態を面白おかしく描く」というジャンルは好きではないので、アニメは最初から観ていなかった。なぜ観ることにしたのかというと石原立也監督だったから。

石原立也監督は『Kanon』、『AIR』、『CLANNAD』を監督してきた京アニのエース級の演出家であり、本来は奇しくもこの『中二病~』と同時期に放送された『リトルバスターズ!』を監督しているべき(と私は考えた)人物である。その京アニ石原監督の最新作がなぜ『中二病でも恋がしたい!』なのか? 納得いかなかったので調べてみたら原作が京アニ主催の新人賞受賞作であり京アニ刊行だったという次第。つまり、原作ものからオリジナル作品に舵を切りたいがあまりうまく行っていない京アニとしては「原作を自社で囲い込む」という次善の策に出たわけだ。ある意味で社運が懸かってるので信頼と実績の石原監督が登用された、というようなストーリーで考えると理解はできる。

ところが、京アニでも原作尊重派の最右翼である石原監督にもかかわらず、本作『中二病~』は原作小説と全く内容が違う、という評判だった。具体的にはメインキャラの一人である「凸守早苗」は原作に登場しないアニメオリジナルキャラクターだということは聞いて知っていた。

以下、アニメを基準とした、原作の異なる点。主なもの。

  • 凸守早苗が登場しない
  • 五月七日くみんが登場しない
  • 同好会(魔術結社)が結成されない
  • 勇太と六花が同じマンションの住人ではない
  • 六花に姉はおらず、他の家族も登場しない

早い話、アニメの主題歌を歌っているヒロイン四人組のうち半数の二人は原作に登場しないオリジナルキャラ。そして、「ヒロインが主人公の家の上階に住んでいてベランダから直接部屋を訪問する」、「新しい部活を作って主人公とヒロイン一同がそこに所属する」といったラブコメの定番設定も原作にないアニメオリジナルのものだ。

では、原作には何があるのか?

何もないのである。

むしろ構造のなさが特色と言っていいくらい、原作小説は一本調子エピソードの連続だけで進行する。それも一つ一つがやたら長い。たとえば主人公・勇太が初めて学校で六花と会話する、その一日のエピソードで冒頭80ページを消化している。小説全体としても長い。ちゃんと計算はしていないが、そもそも賞の募集規定が最大520枚とかなり長めであり、その上限近い枚数なのではないか。KAエスマ文庫の体裁も他のレーベルに比べて字が小さめで長尺対応という印象を受ける。閑話休題

一般にラノベの文章はどんどん淡白になる傾向がある中で、ストーリーの量に比べて記述が長いのはこの小説の持ち味にもなりうる部分だが、それにしても冗長であることは否めない。

そして、「中二病」が、ヒロインの特徴づけであり仲良くなったきっかけというだけで、小説のテーマになっていない。本編のプロットは、「赤点で追試を食らった六花の勉強を勇太が見てやる」、そしてクライマックスは「追試に及第すれば勇太との接点がなくなることを恐れた六花が登校せず、勇太が自宅まで迎えに行って告白」というエピソードで終わる。二人がつき合うまでの、ラブコメの直線的な展開に終始している。

中二病が関係ないのである。

というより、一つのエピソードがそのまま長編になってしまっている。本編で解決していない伏線はいろいろあって、まあ当然シリーズ化を見て先の話を用意しておくのはいいのだが、肝心の一巻の内容がこれでは物足りない。六花が家族と離れて一人暮らしをしている理由や、邪王真眼の能力を「父親から受け継いだ」と言うセリフ、勇太が現役の中二病だった頃の親友(次回以降登場する新ヒロイン)が転校して森夏の同級生になっていたという話、その森夏の中二病時代について「もりさま」という呼び名以外に描写がない、その二つ名をなぜ六花が知っていたのかも不明のまま、などなど、あまりにも未解決のままの点が多すぎる。

以上、単にストーリー処理上の問題に加えて、タイトルにある「中二病」が賑やかし以上の意味を持っていないのも、いかにも物足りない。

ここで中二病ジャンルの偉大な先行作品、田中ロミオ『AURA ~魔竜院光牙最後の戦い~』に言及せざるをえまい。『AURA』自体の感想はタイミングの問題でこの日記には書いていないが、同じ田中ロミオ『灼熱の小早川さん』を読んだのも『AURA』との関連を意識してのことだし、個人的にも重要な作品と考えている。

主人公が中二病を卒業し一般人として高校デビューしようとするが、現役中二病のヒロインに関わって――、という話型は『AURA』と『中二病~』に共通する。しかし後者が先行作を踏まえ、意識して書かれたのかどうかは疑問だ。

『AURA』における中二病は、主人公にとって完全に封印した過去であり、暴かれてはならない秘密である意味が極めて強い。だからこそ、ヒロインをはじめとするクラスの中二病(=妄想戦士)に絡まれるのを必死で避けようとするしその葛藤がドラマになる。なぜなら、中二病によって学校では迫害され、家庭に深刻な問題を起こした事実が厳然としてあり、その傷痕はまだ生々しく残っているからだ。

中二病設定を書き綴った妄想ヒロインへの手紙を読んでしまった両親は主人公に精神科を受診させる。日常的な中二病コスプレを止めさせようとした当時ヤンキーの姉は暴力で主人公の鼓膜を破る怪我を負わせ、その影響で主人公は現在でも姉には敬語でしか喋れない(余談だが私はこの姉のキャラが大好きだ)。息子の中二病を本気で精神科の管轄に属する問題と捉えその再発を恐れる両親は今も腫れ物に触るような態度で主人公に接する。中二病的、オタク的なものに対する一般人の圧倒的な無理解、嫌悪、偏見がこれでもかと描かれ、作品全体に影を落としている。これこそラノベで描かれるべき家族の姿ではないか。

主人公はヒロインとの初対面でその中二設定を信じかけるなど、中二マインドを本当に失ってはいないのだが、一方で過去の言動への後悔も深刻であり、また家族に心配をかけないよう常に気を使って生活している。これが『AURA』の描く「中二病卒業者」の姿だ。

翻って『中二病でも恋がしたい!』はどうか?

導入部でこそ、「中二病」という単語に過剰に反応し、患者だった過去を隠そうとする勇太だが、結局はポーズだけである。その理由も単に「恥ずかしい」のと、「周囲に迷惑をかけた」という反省の弁はあるが、その内容は曖昧である。要するに「中二病に迷惑を被った人物」がこの小説には登場しない。

だから勇太の過去が森夏やクラスメートに知れてもそれが問題になるわけでもなく、また六花の中二病に対する勇太の態度も「そのうち治るのだからよい」というものだ。中二言動にも適当につきあってやっている。同じ卒業者で「中二病は早く止めさせるべき」という積極的な意見の持ち主であるはずの森夏も、そのために特に何かするというわけでもない(だから森夏のキャラクターとしての機能は弱い)。つまりこの作品世界で中二病は本質的に問題とされていないのである。『AURA』と比較すれば差は歴然だ。

対して、この中二病問題をある程度掘り下げたのが、石原立也監督のTVアニメ版である。

既に挙げた通り、アニメ版は原作から主要登場人物を何人か借用した、という程度の関係しかない。

オリジナルも含むメインキャラは、中二病に対するスタンスがそれぞれ異なる。

主人公勇太は、原作と同じく中二病を恥ずかしい過去と考えているが、六花の中二病に対してはツッコミを入れつつも寛容に見守っている。

森夏は勇太以上に過去の中二病歴を恥=黒歴史としてひた隠し、その反動で委員長キャラになっている。チア部に所属するのもスクールカースト上流(クイーンビー)イメージの強化だろう。六花の中二病に対しては早く止めさせるべき、と強く否定的。彼女の過去が、本作で主に扱われている邪奇眼系とは別系統の、スピリチュアル系(?)の中二病であるのも面白い。

凸守は、中二病現役世代にして六花と森夏のフォロワーである。邪王真眼のサーヴァントであり、中二病時代の森夏(モリサマー)の信奉者でもあったという。上記の面々にとってはかつて通った道であり、森夏にとっては秘匿すべき過去を知る相手というフックにもなっている。

くみん先輩は、中二病罹患することなくその時期を過ごした(だから上級生)、他の面々にとっては「ありえたかもしれないもう一つの青春」のモデルである。それでいて中二病に対して一種ポジティブな興味を示す、勇太とは別の視点にもなる。そして、クライマックスへの流れでは中二病を一旦卒業した六花に代わって二代目邪王真眼を継承するという、(アイディアとして面白いだけでなく)実は重要な役割を果たした。

こうして見ると、中二病を軸に登場人物の役割は整理されているのがわかる。

さらに、ストーリー上も中二病否定/肯定の問題をテーマに据えたが、その大胆な解釈には問題点もあった。つまり、六花の中二病の原因として、(原作でも示唆された)父親の問題を持ってきたことである。

病で死期の迫った父親は、幼い六花には最期まで普通に接してほしいという理由で病気のことを知らせないよう希望する。その結果、父の突然の死を受け入れられない六花は逃避行動として中二病を発症する。しかもそのモデルは他ならぬ勇太だったことが明らかになる。

ここで『AURA』より、主人公の血を吐くような中二病糾弾のセリフを引用しよう。

「自分を守る努力がなんでできないんだよ! そんなに普通とは違う自分をアピールすることが大事なのか? いい加減にしてくれよ! 俺はもうそういうのイヤなんだよ! みっともないって自覚しちまったから、もう二度と戻れないんだよ!」

「……普通がそんなにイヤか。ただの一般人じゃそんなに不満か。目立ちたいなら、人に見られるだけの努力をしろよ。時間かけろよ。本物になれよ。そういうのすっ飛ばして、いきなり結果だけ求めんな。俺はそういうの大嫌いだよ。イジメられて当然だよ。どうしてもっと素直に助けたいって、思わせてくれないんだよおまえらは……」

中二病とは、平凡な自分を否定したくて妄想の中に特別な存在としての自分を作り上げる、ありがちな思春期自意識産物である。だからこそ滑稽だし、だからこそ誰もがある程度共感できる。

あくまで「平凡な現実」「普通の自分」をベースに発症するのが中二病だとすれば、父親の死からの逃避、という切実な理由を与えられた六花のそれは逆に中二病としては邪道だろう。むしろある意味で特権的な、救済されるべきヒロインであり、それはあえていえば石原監督が手がけてきたKey作品の物語である。

もちろん、そもそも原作でテーマとして消化されていない中二病アニメがフォローする義理はないのだが。

アニメアニメで、父の死後、中二病化した六花を持て余して家を出たという母親(全編を通じた母親の不在は、これもKey的なモチーフに見えて印象的である)、「真面目な性格」故に六花の奇矯な言動を受け容れられない祖父など、中二病と周囲(家族)の問題には原作よりも『AURA』的に踏み込んだ描写が見られる。そして祖父母の家に帰省した六花が、父の墓参を拒否して逃亡し、勇太と二人夜行列車で帰ってくるシーンなどは、「主人公がヒロインを連れて田舎に逃げる」というパターンのちょうど裏返しになっているのが興味深い。

母親代わりの姉が海外へ行くことになり居場所を失った六花は、先に書いた通り一度は中二病を卒業する。しかしその様子はアイデンティティの喪失として描かれるばかりで、最終的には現実逃避であったはずの中二病を「父親のいる世界(不可視境界線)と交感する能力」と(勇太が)読み替えることで、逆に「中二病によって父親の死と向き合う」というアクロバティックな着地を決めてみせる。喪失そして再強化という流れでの中二病肯定はそれなりにまとまったクライマックスになっているし、そこでメインキャラ全員に役割が与えられているのもいい。最後に六花が眼帯を外すのが(これは原作通り)彼女の成長を画面上で象徴する表現だが、これが中二病からの卒業にも見えて逆に「邪王真眼の解放」だというのもちょっとうまい。

でもやっぱり、石原監督には『リトルバスターズ!』をやってもらいたかったなー、というオチにどうにか持って行こうと思ったがうまくいかなかった。本当に書きたかったことはそれだけなんで。実際こうして見ると、原作を大幅に改編した結果が彼のキャリアを通じて手がけてきたKey作品との相似を見せるというのは非常に面白いと思う。そして、そのKey作品のパターンを克服して次のステップへと発展したのがリトバスだったわけで、石原監督のキャリア上も重要な作品になったはずなのだが。

2012/06/08(Fri)

蒼山サグ『天使の3P!』(電撃文庫蒼山サグ『天使の3P!』(電撃文庫) - shanghai / ラノベ部 を含むブックマーク はてなブックマーク - 蒼山サグ『天使の3P!』(電撃文庫) - shanghai / ラノベ部

ロウきゅーぶ!』のコンビ(絵師てぃんくる)が放つ新シリーズ。

もちろん小学生で、今度はガールズバンドものです。3Pと書いてスリーピースと読ませるのも完全に確信犯誤用)。

小学生を指導することで主人公自身もリハビリ的に挫折から立ち直っていくプロットは前作と共通ですが、ロウきゅーぶ! の主人公が中学バスケではエース級の実績のある選手で、部活が休部になったという外部的な要因で停滞していたのに対して、今作の主人公は「中学から3年近く不登校引きこもり」というガチな設定。中卒ニートかよヘビーだなと思ってたら、高校には入学したものの一度も登校していないだけだった。そして、宅録ボカロPをやってたらたまたま近所に住んでることが判明したリスナーから連絡がきて、逢ってみたら小学生女子だった! という、ある意味ではリアルな展開。

元教会だった児童養護施設に住む三人の女の子が、偏見で見られるのを恐れるあまり逆に学校で孤立しているという設定は賛否ありそうだし、そんな彼女たちがライブにお客を呼べるか? というフックでコミュニケーション不全を真正面から主題として扱ってる割に、その解決プロセスはちょっと消化不良な感じ。テーマが重すぎたのではないか。それに、ネットで少しばかり動画が話題になってもリアルでの集客は遙かに難しいという前提で話が進むんだけど、それなりに知られたボカロPのプロデュースで小学生ガールズバンドがライブやるなんてネット上で告知したら酔狂な人間の十人や二十人は観に来るんじゃないかと思った。地域にもよるだろうけど。

今回は主人公にリアル妹がいて、後半は毎日一緒に風呂に入る(笑。そうか実妹でそのハードルを越えてきたかー、とそこは素直に感心した。扉のキャラクター紹介ではこの妹(メインの三人とは同級生)のプロフィールに「【愛用楽器】YAMAHA P-95(ピアノ教室の練習用)」という記述があって、あからさまに四人目の追加メンバー要員だなと考えられる。今回はなかったけどいずれその展開があるのは熱い。

主人公が不登校になった原因は、書いた詩をからかわれて「ポエマー」と仇名されたというトラウマで、自作の歌をネットで発表することがリハビリにもなっていて、ヒロインに「詞も好き」と言ってもらうことで吹っ切れるのだが、この流れも少し弱いかなと思う。最後に書いた新曲では作詞上のブレイクスルーがあって、というところも表現し切れていないようで勿体ない。ただ詞そのものをライブシーンで披露したのは直球勝負で好感が持てる。音楽、演奏そのものの小説上での表現については、まずこんなものかと。

ヒロイン三人のキャラも記号的にはわかりやすく立てられてるけど、書き込みはもう一つ。そこは今後に期待か。あと同級生のヒロインも一人います。そこはさすがに手堅い。

それから教会の元神父で彼女らの保護者のオッサンが登場するが、このキャラが弱いのが苦しい。もともとヴィンテージ楽器を蒐集していて教会の地下室に音響設備まで用意していたという、仕掛け人みたいな立場なのにあまりロックを感じさせないというか。まあこの人が活躍しすぎると主人公の出る幕がないわけだから、そもそも登場人物の配置ミスかも。たとえば女性にしてもよかったのでは。思えばロウきゅーぶ!でも、ラノベにおいてあまり描かれない傾向のある主人公の両親を登場させていたのは評価したいが父親の立ち位置が中途半端で、一方ママがヒロインの一人として必要以上に書きこまれていた(笑。 家族や、もっといえば他者としての大人の書かれかたが微妙なのはラノベに典型的な弱点に見える。

と、以上のように全部すらすらと分析できてしまって、そこからハミ出すような言葉にし難い情念の部分がないというか、ある意味手堅すぎるのが物足りないとはいえるかも。

もっとも、バスケに続いてバンドというのは作者の趣味からストレートに持ってきた題材らしいです。その割に楽器についてなどあまりマニアックな記述がなく思い入れが感じられないのはラノベ作法を遵守しているためか。時にはそういう部分の過剰さがスパイスとして効果的だと思うんだけど。閑話休題

あとがきより、

ところで趣味嗜好をそのままモチーフに扱ってきたという事実は、自らの内に溜め込んだリソースを刻一刻と消費してしまっていることの裏返しでもあるわけで。いつしか全ての『好き』の資源を使い果たしてしまったとき、僕は以後どうやって小学生を描いていけばいいのでしょうか。

小学生を描くのは嗜好以前の大前提かよ!